徳川家基の母親は側室・知保の方。育ての母親は別?家系図から簡単に解説!
徳川家基(1762(宝暦12)〜1779(安永8))は、江戸幕府第10代将軍・徳川家治の長男です。
将来の第11代将軍として期待されながらも、謎の急死を遂げたことで知られています。
また、2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、奥智哉さんが演じられることでも話題となっています。
そんな徳川家基の母親は誰なのでしょうか?
この記事では、徳川家基の母親について簡単に解説していきます。
目次
徳川家基の母親は側室の知保の方
徳川家基の母親は、側室の知保の方です。
父親の第10代将軍・徳川家治は愛妻家であったため、側室を決して持とうとしませんでした。
しかし、正妻である倫子との間には子供ができましたが女の子で、男の子はなかなかできません。
将軍である以上、男児の世継ぎを生んでもらわなくては困ってしまいます。
そこで動いたのが、徳川家治の乳母の松島です。
松島は、老中・田沼意次と相談し、徳川家治に側室を持つことを提案します。
最初は、なかなか了承しなかった徳川家治でしたが、田沼意次も側室を持つということを条件に渋々側室を持つこととなりました。
その側室が、知保の方です。
知保の方との間には、無事に後継者となる男児・徳川家基が誕生したのでした。
徳川家基の家系図
【徳川家基の家系図】
徳川家基の育ての親は正妻・倫子
徳川家基の生みの親は、側室の知保の方でしたが、育ての親は実は違います。
徳川家治は、徳川家基の養育を正室の倫子に任せます。
あくまで側室は側室であり、愛する妻が最優先ということだったのかもしれませんね。
そのため、徳川家基の育ての親は、正室の倫子ということになります。
しかし、知保の方は、長子出産の功労から「老女上座」の格式を賜りました。
その後も知保の方は、生みの親として丁重に扱われており、徳川家基が将軍世子として西の丸御殿へと移った際には、それに随従して西の丸大奥へ移り、格式も「浜女中(浜御殿にいた先代将軍側室)」同様となります。
1771年に倫子が死去してしまうと、知保の方は「御部屋様」と称され、世子生母の扱いを受けるようになりますが、徳川家基は18歳という若さで急死してしまいました。
そのため、徳川家基は実の母親とはあまり一緒にはいれなかったのかもしれませんね。
徳川家基の母親・知保の方は晩年に出家した
知保の方は、1786年に徳川家治が逝去すると、出家し、「蓮光院」と名乗るようになりました。
側室として将軍を支え、母として徳川家基を支え続けましたが、その両者を失った悲しみは計り知れません。
晩年はその悲しみからか、静かな生活を送ったとされています。
1791年に、知保の方はこの世を去りました。
55歳でした。
知保の方の墓は、徳川家ゆかりの菩提寺・寛永寺にあります。
また、1828年には、「従三位」を追贈されており、御台所や将軍生母以外の大奥の女性が叙位された珍しい例となっています。
それほどまでに、知保の方の功績は重要視されていたということなのでしょう。
徳川家基に関するQ&A
徳川家基に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 徳川家基の死因は?
- 大奥とはどういう場所?
徳川家基の死因は?
徳川家基の死因は、江戸幕府の公式記録では「急病」とされています。
『続三王外記』には、以下のような内容が記録されています。
徳川家基は、1779年(安永8年)2月21日に鷹狩に出かけた際に、突然体調を崩してしまいます。
そこで、同行していた田沼意次の息のかかった奥医師・池原雲伯が煎じた薬湯を服用しましたが、痛みが治まらず、急遽江戸城西の丸へ帰りました。
驚いた父・徳川家治は医師の手厚い治療を受けさせましたが、その甲斐もなく3日後には急逝してしまいました。
享年18歳でした。
しかし、それまでに病気の兆候は全くなく、死の直前まで元気に過ごしていたことから、この急死は不自然であるとも考えられています。
そこで、徳川家基の死因には、暗殺説や落馬事故説なども浮上してきました。
大奥とはどういう場所?
大奥とは、江戸城内にある居住区の中でも、特に将軍の妻子が住んでいる場所のことを指します。
大奥が置かれた最大の目的は、
「江戸幕府将軍の世継ぎとなる、血の繋がった男児をもうけること」
当時、将軍の後継者は、血の繋がった男児でなくてはならないという不文律がありました。
そのため、将軍は一夫多妻が当たり前であり、できれば正室、無理でも側室が男児を生むことを期待されていました。
そのための仕組みが、大勢の女性を住まわせた大奥という存在だったのです。
ちなみに、一番大奥を利用していたとされるのは、第11代将軍・徳川家斉です。
徳川家斉は、なんと16人もの女性との間に、53人の子供を授かったと言われています。
これは、歴代徳川将軍の中で断トツトップの子供の数でした。
まとめ:徳川家基の母親は側室の知保の方で、育ての親は正室の倫子だった
徳川家基の母親は、側室である知保の方でした。しかし、愛妻家であった徳川家治は、正室を最優先するために、養育を正室・倫子に任せます。つまり、徳川家基の生みの親は知保の方で、育ての親は倫子ということになります。
今回の内容をまとめると、
- 徳川家基の生みの親は側室・知保の方
- 徳川家基の育ての親は正室・倫子
- 徳川家基の生みの親、知保の方は将軍の生母のような扱いを受けていた
徳川家基は、次期将軍を期待されながらも、18歳という若さで急死してしまいます。しかし、その後の知保の方の扱いを考えると、いかに徳川家基という存在が重要視されていたのかが伺えますね。



