藤原伊周の家系図をわかりやすく解説!子孫は現在まで続いてる?藤原道長との関係は?
藤原伊周(974(天延2)〜1010(寛弘9))は、平安時代中期に活躍した公卿です。
藤原道長とは、藤原家のトップの座をかけて対立していました。
また、2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、三浦翔平さんが演じられることでも話題となっています。
そんな藤原伊周の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
この記事では、藤原伊周の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。
目次
藤原伊周の家系図
【藤原伊周の家系図】
藤原伊周のプロフィール
【藤原伊周のプロフィール】
藤原伊周(ふじわらのこれちか) 974年(天延2年)〜1010年(寛弘9年) 享年:37歳
父:藤原道隆/母:高階貴子
妻:源重光の娘、源致明の娘、源為光の娘
子:藤原道雅、藤原頼宗室、藤原周子、藤原顕長
藤原伊周は、974年(天延2年)に藤原道隆と高階貴子の間に誕生します。
母方の家系が学才の高さで知られていたこともあり、藤原伊周も当時の貴族に相応しい教育が施されていました。
特に、文筆の才能に優れていたと言われています。
その後、若くしてスピード出世していき、3人の妻も迎えました。
そして、子供は全部で4人(男子:2人、女子:2人)授かりました。
藤原伊周の男系子孫は途絶えてしまった
先程もお伝えしたように、藤原伊周は全部で4人(男子:2人、女子:2人)の子供を授かりました。
そのうち、嫡男である藤原道雅は、従三位まで昇り詰めますが、出家し、その後すぐに亡くなってしまいます。
藤原道雅には子が2人いましたが、その2人の息子も出家してしまいます。
さらに、もう1人の男児である藤原顕長は、詳細な記録が残っておらず、経歴不明なままです。
このようにして、藤原伊周の男系子孫は途絶えてしまいました。
しかし、女系子孫は続いています。
長女は、藤原頼宗の正室に迎えられ、その子孫は藤原北家の嫡流にあたる「松木家」や「持明院家」などに分かれて続いているとされています。
藤原伊周と藤原道長の関係はライバル
藤原伊周と藤原道長は、家系図から見ても分かる通り、叔父と甥の関係です。
しかし、それ以上に、当時の権力トップを競い合うライバルでもありました。
995年に、はしかが猛威を振るって、公卿上位8人のうち6人までが3ヶ月ほどの間に亡くなってしまったのです。
その際に生き残った唯一の2人が、藤原伊周と藤原道長でした。
2人がお互いを意識し合っていたということがよくわかるエピソードがあります。
ある日藤原道長は、藤原道隆の屋敷で行われていた、藤原伊周が人を集めて弓を射ている会に参加しました。
この当時、藤原道長は、藤原伊周よりも官位が下でした。
しかし、藤原伊周よりも先に矢を射てしまい、結果的に勝利してしまうのです。
この結果に、関白の息子でもある藤原伊周に花を持たせようと、周りの人間が延長戦を提案します。
内心、納得がいかない藤原道長でしたが、延長戦の提案を受けました。
その延長戦の1本目。藤原道長は、
「自分の家から帝・后が出るなら、この矢よ、当たれ」
といって、矢を放つと、その矢は見事真ん中に命中しました。
そして、このすぐ後に矢を放った藤原伊周は的を外してしまいます。
さらに、2本目。藤原道長は先程のように、
「私が摂政・関白になるはずなら、この矢よ、当たれ」
といって、矢を放つと、またしても真ん中に命中したのです。
この事態に、周りは気まずい雰囲気が流れ、これをみかねた藤原道隆が「これ以上射るな」と藤原伊周を止めて、弓比べは中止となりました。
このように、藤原伊周と藤原道長は度々対立することがあったようです。
しかし、結果としては、長徳の変によって藤原伊周が失脚してしまい、藤原道長の時代となっていきました。
藤原伊周に関するQ&A
藤原伊周に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 藤原伊周の死因は?遺言は?
- 藤原伊周はどんな人?性格は?
- 藤原伊周はイケメンで、『源氏物語』のモデルの1人だった?
藤原伊周の死因は?遺言は?
藤原伊周は、1010年(寛弘7年)に、37歳という若さで亡くなってしまいました。
死因については、『大鏡』によると「御病」としか書かれておらず、病死ではあるのですが具体的な病名までは判明していません。
しかし、『栄花物語』にはこの病気に罹った藤原伊周について、以下のような記載がされています。
「しきりに水を飲んでいて、食欲もあるのに痩せていった」
この記述から、藤原伊周は、父や叔父と同じように糖尿病であった可能性も考えられます。
また、『栄花物語』では、藤原伊周は以下のような遺言を残したと記されています。
【娘たち宛】
「私が死んでしまったら、あなたたちの将来はどうなるのだろう。
なぜ生きている間に、姫君たちを先立たせてくれと祈願しなかったのだろうと、今更悔やまれる。
私が死んだあと、物笑いの種になるようなみっともない振る舞いがあったら、きっと恨みますよ」
【息子宛】
「あなたを大切に育ててきたが、この程度の官位で見捨てて死ぬとは。
私に先立たれてあなたはどういうふうに生きていくのか。
官位目当てに世間の言いなりになったり、心にも無い追従をしたりするくらいなら、
出家してしまいなさい」
以上の遺言を受け、娘たちはいいところに嫁ぎ、息子は従三位まで昇り詰めた後に出家しています。
藤原伊周はどんな人?性格は?
藤原伊周は文才に溢れ、性格は子供っぽい一面があるものの、冗談を好む明るいものであったと言われています。
それぞれ詳しく見ていきましょう。
・藤原伊周は漢詩において突出した才能を持っていた
藤原伊周の母・高階貴子は、和歌や漢詩の才能に優れた女性で、藤原伊周もその文才を引き継いでいました。
その中でも、特に藤原伊周は漢詩において突出した才能を持っていたとされています。
1005年に土御門邸で行われた作文会という漢詩の会においては、参列者が感動して涙を流すほど素晴らしい作品を発表したのです。
この時に詠んだ漢詩「花落春帰路」は、『本朝麗藻』に収録されており、この他にも15首もの藤原伊周の漢詩が掲載されています。
・藤原伊周は子供っぽい一面があった
『大鏡』によると、藤原伊周は「心が幼い人であった」と語られています。
藤原道長の家来の言葉に以下のようなものがあります。
「心幼くおはする人にて、便なきこともこそ出でくれ」
(現代語訳:(藤原伊周は)心が幼稚でいらっしゃるから、不都合なことが起きると大変だ)
これはどういう状況の言葉だったかというと、藤原伊周と藤原道長が道長邸にて双六を打とうとしていたのですが、藤原伊周が子供っぽく感情を爆発させやすい性格だったため、家来たちは双六を打つことに反対していたという状況でした。
また、藤原伊周は儀式の内容に関して、他の公卿と意見が対立することが多々ありました。
そのため、周囲から孤立することもしばしばあったようです。
心が幼いあまり、周りに合わせるということが苦手だったようですね。
・藤原伊周は冗談をよく言う、明るい性格だった
藤原伊周の父・藤原道隆や妹・定子は、冗談を好み、よく笑う明るい性格でした。
藤原伊周も同じような性格であったと言われています。
『枕草子』の「宮にはじめてまゐりたるころ」の段でも、その性格の明るさを清少納言が記しています。
藤原伊周はイケメンで、『源氏物語』のモデルの1人だった?
藤原伊周はイケメンであったと『枕草子』や『栄花物語』などにおいて記述されています。
特に、『枕草子』では藤原伊周のことを、
- 作り物語に語られている貴公子
- ものものしう清げ(どっしりとしてすっきりと美しい様子)
以上のように説明しており、藤原伊周は貫禄のある雰囲気の美しさであったことが伺えます。
また、このことに関連して、藤原伊周は『源氏物語』に出てくる主人公・光源氏のモデルなのではないかとする説があるのです。
藤原伊周が光源氏だと考えられる理由は以下の3つです。
- イケメンであった点
- 学問に優れていた点
- 地方に配流された点
光源氏のモデルは複数存在すると言われているのですが、以上のことから藤原伊周もそのうちの1人であると考えられています。
まとめ:藤原伊周の家系図からは藤原道長とは叔父と甥の関係ということがわかり、男系子孫は途絶えてしまった
藤原伊周は全部で4人(男子:2人、女子:2人)の子供を授かりました。そのうち男系の子孫は、全員出家してしまい、男系子孫が続くことはありませんでした。また、藤原道長とは叔父と甥の関係でしたが、お互いに権力トップを競い合うライバルでもありました。
今回の内容をまとめると、
- 藤原伊周は全部で4人の子供を残した
- 藤原伊周の男系子孫は途絶えてしまった
- 藤原伊周の女系子孫は藤原北家の嫡流として続いていった
- 藤原伊周と藤原道長は叔父と甥の関係だった
藤原伊周と藤原道長は、はしかさえ流行らなければ、もっと権力争いを行う人は多かったはずで、また違った人生が待っていたのかもしれませんね。



