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一条天皇の死因は病死。土葬を望んでいた?晩年の姿は?辞世の句は?墓所は?

一条天皇(980(天元3)〜1011(寛弘8))は、日本の第66代天皇です。

藤原道長が絶大な権力を握っている中、摂政関白と協力して政治を行っていました。

また、2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、塩野瑛久さんが演じられることでも話題となっています。

そんな一条天皇はどのようにして亡くなったのでしょうか?

この記事では、一条天皇の死因について簡単に解説していきます。

一条天皇の死因は病死

一条天皇の死因は病死と言われていますが、具体的な病名は判明していません。

発病からわずか1ヶ月で亡くなってしまったことから、発病時にはかなり病状が進行した状態だったことが伺えます。

一条天皇は幼少期から病弱だった

一条天皇はなんらかの病気で亡くなってしまいました。

実は、一条天皇は、晩年に突然病気にかかったわけではなく、幼少期から病弱だったのです。

以下の表は、記録の中に見られる一条天皇の病歴です。

西暦(年)年齢(歳)病状
9878「内の悩気御坐す」記録に見える初めての病気
98910「日を追いて危篤、甚だ激しく、供御(飲食)を廃す」年頭から病気が続いた
990116月28日からマラリア(熱病)で苦しんだ8月6日に治癒するが、13日には赤痢に罹る赤痢は16日には治った
993142月3日に病気にかかり、安倍晴明が禊を行う8月8日には疱瘡(天然痘)に罹る
998197月18日に赤疱瘡(麻疹)に罹る
999203月15日、20日に咳病7月16日に歯痛12月8日に眼病
1002234月3日に病脳
1003242月26日に病脳
1005264月26日から20日以上の食欲不振に陥る時々悩気がある
1009302月18日に病脳25日には病が重くなり、御手水間にへたり込んでしまう
1011325月22日に病脳「主上、日来、尋常に御坐さず。今、頗る重く悩み給う」その後、一進一退の状況が続き、6月14日に更に病が重くなる6月21日、崩御

これだけ病気の記録が残っているくらいなので、一条天皇の病弱ぶりは多くの人が知るところだったのでしょう。

一条天皇の晩年の姿

一条天皇は、1011年の5月に発病してから、一進一退の状況が続きました。

6月に入ると、更に病状が悪化してしまったため、一条天皇は三条天皇に譲位し太上天皇となり、出家することにします。

6月21日には、もうほとんど望みのないような状態になり、この頃には藤原行成が飲み物を提供すると、

「最もうれし」

と語っていました。

さらには、

「此れは生くるか」

(自分は生きているのだろうか)

とも話していたようです。

夜になってから、体を起こし、辞世の句を読むと、再び横になり、そのまま意識不明となってしまいました。

その後、時々念仏を唱えながらも、臨終を迎えたと言われています。

一条天皇の墓所は圓融寺北陵。本当は土葬を望んでいた?

一条天皇の墓所は、京都の龍安寺内にある圓融寺北陵です。

ここに埋葬されているのですが、実は最初は遺骨が別の場所に安置されていました。

これはどういうことかというと、一条天皇は生前、自身が死んだら、葬儀は土葬で、円融院法皇の御陵の側に葬ってほしいと周りの者に伝えていました。

一条天皇が土葬を望んでいた理由は、明確には判明していませんが、おそらく一条天皇が愛した女性である定子と同じようにしてほしかったのだと考えられています。

しかし、一条天皇が亡くなると、藤原道長はそのことをうっかり忘れてしまっていたようで、火葬してしまうのです。

そのことについて、『権記』には以下のように記されています。

「故院が御存生の時におっしゃられたところである。何日か、まったく覚えていなかった。ただ今、思い出したのである。ところが、きっと益の無い事で、すでに決まってしまったのである」

このように、藤原道長は藤原行成に語ったそうです。

要約すると、

「土葬してほしいと言われていたけれど、忘れていたし、思い出したところで、もう火葬してしまったから仕方ないよね」

ということです。

こうして、一条天皇の遺骨は、火葬された後、東山の円成寺に安置されていましたが、その3年後に遺言通り圓融寺に移されました。

一条天皇の辞世の句

一条天皇は死ぬ間際、辞世の句を残しています。

藤原行成の『権記』によると、辞世の句は以下のとおりです。

【一条天皇の辞世の句】

「露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことぞ悲しき」

現代語訳:人という露のように儚い身の、風にさらされる無常の世。そんな俗世に君を置いて、この世を離れてしまうことが悲しいよ

この辞世の句には、「君」が誰を指すのかという論争があります。

「君」の候補として挙げられるのは、「彰子」と「定子」です。

もし、彰子が「君」だった場合、この辞世の句は、
「かりそめのこの世に君(彰子)を置いたまま出家してしまったことが悲しい」

というような解釈になります。

また、定子が「君」だった場合は、

「君(定子)が成仏できず露の身になって、この世に留まっているのに、自分だけが成仏してしまうのが悲しい」

というような解釈になるのです。

なお、藤原行成はこの「君」は定子であると解釈しています。

その根拠として挙げられるのが、『栄花物語』にある定子の辞世の句です。

「煙とも 雲ともならぬ 身なりとも 草葉の露を それとながめよ」

現代語訳:煙にも雲にもならず空に漂うこの身であっても、草葉に置く露を見て、この私だと思って偲んでください

つまり、定子は辞世の句において、「私は成仏できずに草葉の露となります」と言っていたわけです。

一条天皇の辞世の句は、そんな定子の辞世の句に対する返歌である可能性が高いと藤原行成は考えました。

しかし、一条天皇が辞世の句を詠んだ際、側には彰子が付き添っていました。

そのことまで考えると、定子にだけ宛てた和歌というには、最後まで付き添った彰子があまりにもかわいそうです。

つまり、一条天皇はあえて定子・彰子どちらともとれるような和歌を詠んだ可能性が高いのです。

死ぬ間際で苦しんでいたであろうに、そのように気が回るとは、一条天皇の人柄が伺えますね。

一条天皇に関するQ&A

一条天皇に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 一条天皇の妻は何人いた?
  • 一条天皇はイケメンだった?
  • 一条天皇は大の猫好きだった?

一条天皇の妻は何人いた?

一条天皇の妻といえば、定子と彰子が有名ですが、その他にも3人おり、全部で5人の妻がいました。

・定子

一条天皇に最初に入内したのが定子です。

一条天皇に最も愛され、子供も3人授かりました。

しかし、第三子を生んだ後、定子は亡くなってしまいました。

・義子

義子が入内したのは、長徳の変で定子の後見が没落した後です。

この頃から、男皇子を産む可能性を上げるために、他の后も次々に入内していきました。

義子は、血筋的には定子よりも高貴であり、有力な后となるはずでしたが、一度も子を授かることはありませんでした。

・元子

義子があまり一条天皇から寵愛を受けていないことを受けてか、入内したのが元子です。

元子も義子と同じく定子よりも高貴な血筋でした。

元子は義子と違い、一条天皇に気に入られ、一度は懐妊します。

しかし、臨月を過ぎても出産することはなく、子宮から大量の水が出ただけで、腹部は平らになり終わってしまいました。

このように、元子は子を成せませんでしたが、その後も一条天皇からの寵愛は続いたと言われています。

・尊子

尊子は、御匣殿別当として入内しました。

しかし、一条天皇は尊子を気に入らなかったのか、寵愛の形跡が見られません。

懐妊もしていなければ、女御になったのも入内してから2年以上経ってからとなりました。

・彰子

一番最後に入内したのが彰子です。

入内した当初、彰子はまだ12歳であったため、しばらくは一条天皇から女性として寵愛を受けることはありませんでした。

しかし、その後成長してからは、見事に2人の男皇子を出産し、その子は2人とも天皇に即位しました。

こうして、彰子は「国母」となったのです。

また、妻とはなっていませんが、一条天皇が愛した女性として、定子の妹である御匣殿も挙げられます。

『栄花物語』によると、一条天皇はこの御匣殿も寵愛して懐妊させてしまったようです。

一条天皇は、この御匣殿に、亡き最愛の人・定子の面影を見出し、愛してしまったのかもしれません。

しかし、御匣殿も妊娠中に亡くなってしまいます。

一条天皇はこのことにひどく落胆したと言われています。

一条天皇はイケメンだった?

一条天皇はイケメンだったという話があります。

そのことについては、『栄花物語』に書かれています。

「この上は、いみじう御かたちよりはじめ、きよらにあさましきまでぞおはします」

現代語訳:この帝は、ご容貌をはじめとして、気高く美しく、ただただ驚き入るほかない様子である

このように、一条天皇は見た目だけでなく、放つ雰囲気も気高く美しいと絶賛されているのです。

ただし、『栄花物語』は藤原道長の栄華を賛美する内容の歴史物語なので、藤原道長の娘の夫である一条天皇の容姿についても、多少の誇張が入っている可能性はあります。

一条天皇は大の猫好きだった?

一条天皇は大変な愛猫家としても知られています。

一条天皇の愛猫家がわかるエピソードをいくつかご紹介していきます。

・猫のために産養い(うぶやしない)を行った

一条天皇は、自身が飼っていた猫が子を生むと、産養いを行っていました。

産養いとは、子供が生まれた初夜から9日目までの奇数の日数に行う祝い事のことです。

しかし、これは通常人間の子供が生まれた際に行うものでした。

そのため、このことについて、藤原実資は『小右記』において「全く理解できない」と記しています。

一条天皇は、この祝い事に右大臣、左大臣を呼び、盛大に子猫の誕生を祝っていたそうです。

それほどまでに、子猫の誕生を喜ばしく思っていたことがわかりますね。

・猫に位を与えた

一条天皇が普段いる内裏には、相応の身分の者しか入れないことになっていました。

そこで、一条天皇は、猫がいつでも入ってこれるようにと、猫に「命婦(みょうぶ)のおとど」という名をつけます。

命婦とは、従五位下の位を持つ女性のことです。

つまり、一条天皇の猫は、位を与えられ貴族の仲間入りを果たしたどころか、さらに昇殿を許されたので殿上人ともなったのです。

いかに猫のことを特別待遇していたのかが伺えます。

ちなみに、命婦のおとどは、ペットとして飼われた猫の中で、名前を持つ特定の個体として記録が残る最古の例となっています。

・猫を守るために犬を追放した

一条天皇は、先程の命婦のおとどに、馬の命婦という名の乳母をつけ大切に育てていました。

しかし、あるとき一条天皇が馬の命婦に対して怒り心頭に発する出来事が起きてしまいます。

その日は、命婦のおとどが縁先で日差しに当たりながら居眠りをしていました。

すると、馬の命婦は行儀が悪いとして注意しますが、命婦のおとどは一向に言うことを聞く気配がありません。

そこで、馬の命婦は皇后・定子が飼っていた犬である翁丸(おきなまる)に、

「命婦のおとどを脅かしておやり」

と、指示を出します。

翁丸が指示通り脅かすと、命婦のおとどは驚き、慌てて一条天皇のいる御簾の中へと逃げ込みました。

事情を知った一条天皇は大激怒し、翁丸を宮中から追放するとともに、馬の命婦も乳母から外すことにしたのでした。

翁丸は、後に再び一条天皇に許され、宮中に戻ってこれたそうです。

まとめ:一条天皇の死因は病死で、土葬を望んでいたが藤原道長によって火葬されてしまった

一条天皇は、幼少期から病弱であったこともあり、その死因も病死というものでした。一条天皇自身は、亡くなったら土葬をしてほしいと望んでいましたが、藤原道長によって火葬されてしまったという話もありました。

今回の内容をまとめると、

  • 一条天皇の死因は病死。具体的な病名は判明していない
  • 一条天皇は土葬を望んでいたが、藤原道長によって火葬されてしまった

愛する人とせめて同じ弔い方にしてほしいという一条天皇の思いを、藤原道長はうっかりと忘れてしまいました。しかし、藤原道長ほどの人物がうっかり忘れるとは考えにくいです。これは、「彰子のライバルであった定子のもとになぞ、死んでもなお行かせるものか」という藤原道長なりの考えがあったのではないかと思わずにはいられません。

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