赤染衛門の子孫は現在まで続いてる?家系図で簡単に解説!おしどり夫婦だった?
赤染衛門(956(天暦10)頃〜1041(長久2)以後)は、平安時代中期に活躍した女流歌人です。
百人一首の歌人であり、中古三十六歌仙や女房三十六人歌仙の一人にも数えられています。
また、2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、凰稀かなめさんが演じられることでも話題となっています。
そんな赤染衛門の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
この記事では、赤染衛門の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。
目次
赤染衛門の家系図
【赤染衛門の家系図】
赤染衛門はどんな人?
赤染衛門(あかぞめえもん) 956年(天暦10年)頃〜1041年(長久2年)以後
父:赤染時用(平兼盛?)/母:女(詳細は不明)
夫:大江匡衡
子:挙周(たかちか)、江侍従(ごうじじゅう)
赤染衛門は、赤染時用の子であると言われています。
しかし、『袋草紙』には、赤染衛門の母親は前夫の平兼盛の子どもを宿した状態で赤染時用と再婚し、赤染衛門を出産したとの記述があります。
つまり、赤染衛門の本当の父親が誰かははっきりとは判明していません。
赤染衛門は、藤原道長の正妻である倫子に仕えました。
そして、その後、倫子の娘で一条天皇の中宮である彰子にも仕えます。
この時期に、赤染衛門は紫式部や和泉式部と同僚として交流がありました。
赤染衛門には、文学の才能があり、『栄花物語』の作者としても知られることとなりました。
赤染衛門の子孫が現在まで続いているのかは不明
赤染衛門は、夫・大江匡衡との間に一男二女の子どもに恵まれましたが、そのうちの娘の一人は若くして亡くなってしまいました。
残った二人のうち、江侍従という娘は、母同様歌の才能に恵まれ、『後拾遺和歌集』に入集するほどまでの名手に成長しましたが、子どもは残していません。
息子・挙周は、高階明順の娘と結婚すると、一人の子どもを残しました。
その息子の子が、後三条天皇にブレーンとして重用され、最終的に正二位中納言にまで昇格した大江匡房です。
つまり、大江匡房は、赤染衛門の曾孫に当たります。
また、この大江家の血は繋がっていき、一説には、鎌倉幕府創建の功臣・大江広元も赤染衛門の子孫ではないかという話もあります。
ただし、大江広元の実父には諸説あるので、真相ははっきりとは判明していません。
しかし、もし仮にそれが真実だとすると、大江広元の子孫とされる毛利氏も赤染衛門の子孫である可能性が出てきます。
赤染衛門と夫・大江匡衡はおしどり夫婦だった
赤染衛門は、夫をよく支える妻としても評判でした。
夫の大江匡衡は文章博士として働いており、貴族が天皇に奏上するような重要な文書の作成をしていました。
ある時、藤原公任から中納言を辞する文書の作成を頼まれます。
大江匡衡がどうしたものかと悩んでいたところ、赤染衛門が「高貴な祖先を持ちながら、厳しい境遇に身を沈めている」と内容を助言します。
この通りに提出したところ、藤原公任はたいそう喜んだそうです。
また、大江匡衡が尾張守として現在の愛知県西部に赴任したときには、赤染衛門も同行し、仕事を支えたと言われています。
一緒に暮らし始めてからは、一男二女に恵まれるなど、非常に夫婦仲もよかったようです。
紫式部は、『紫式部日記』において、赤染衛門が「匡衡衛門」と呼ばれていたことを記しています。
これはつまり、2人がおしどり夫婦だったということを表しているのです。
時には、夫の浮気などもあったようですが、赤染衛門の歌によってすぐに仲直りしています。
このように、赤染衛門と大江匡衡は、非常に良い関係を築けていたのです。
赤染衛門は子どもの出世に尽力した
1012年に夫が亡くなってしまうと、赤染衛門は子どもたちの出世に尽力するようになります。
特に、息子・挙周には比類ない愛情を注いでいました。
そのため、挙周が官位を望んだ際には、自身が仕えていた藤原道長の妻・倫子に宛てて、以下のような歌を贈っています。
「思へ君 かしらの雪を うち払ひ 消えぬさきにと 急ぐ心を」
(現代語訳:思ってもみてくださいな。雪が消えないうちに(私が生きているうちに)と、急ぐ心を)
「かしらの雪」というのは、母親である自身の白髪のことを指しており、せめて生きているうちに息子の出世が見たいとお願いしているわけですね。
この歌が、藤原道長の目に止まり、挙周は和泉守に任じられることになりました。
その後も、自分の使えるあらゆる伝手を駆使して、挙周の出世を手助けしていきます。
挙周が昇殿を許された際には、嬉し涙を流したそうです。
また、ある時、挙周は病気になってしまいます。
この病は、住吉明神の祟りだとされ、次第に悪化していきました。
これを受け、赤染衛門は悲しみ、以下の歌を住吉明神に捧げます。
「かはらむと 思ふ命は 惜しからで さても別れむ ほどぞ悲しき」
(現代語訳:代わってやりたいと思う私の命は惜しくありません。しかし、それによって永遠に別れることになってしまうことが悲しいのです)
すると、その晩のうちに挙周の病が癒えたのです。
身代わりになってもいいという母の思いが届いたのかもしれません。
このように、赤染衛門は子供のことを溺愛し、生涯大事にしていたそうです。
赤染衛門に関するQ&A
赤染衛門に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 赤染衛門の代表作は?
- 赤染衛門の本名は?
赤染衛門の代表作は?
赤染衛門の代表作には、以下のようなものがあります。
- 『栄花物語』
- 『尾張紀行』
- 『赤染衛門集』
また、代表的な和歌もいくつかご紹介していきます。
・「代はらむと 祈る命は をしからで さてもわかれむ ことぞ悲しき」
(現代語訳:(息子に)代り、死んであげたい、と祈る私の命は惜しくないけれど、その祈りが叶うなら(息子と)別れることになるのは悲しい)
・「今宵こそ よにある人は ゆかしけれ いづこもかくや 月をみるらん」
(現代語訳:十五夜の今宵に限っては、世間の人々の様子が気になることです。どこでも私のように月を眺めているのでしょうか)
・「行く人も とまるもいかに 思ふらん 別れて後の またの別れを」
(現代語訳:陸奥国に行く人も、京にとどまるあなたも、夫婦の別れの後に再び別れることを、いかに思うことか)
赤染衛門の本名は?
赤染衛門の本名は不詳です。
赤染衛門という名前自体は、女房名となっており、父が右衛門尉(うえもんのじょう)や右衛門志(うえもんのさかん)を務めていたことが由来となっています。
まとめ:赤染衛門の子孫には大江匡房などがおり、毛利氏に続いている可能性がある
赤染衛門は、生涯で一男二女の子どもを生みました。そのうち息子・挙周が子孫を残しており、その中には大江匡房などがいます。さらにその血筋を辿っていくと、毛利氏に続いている可能性もありました。
今回の内容をまとめると、
- 赤染衛門は一男二女の子を産んだ
- 赤染衛門の子孫には後三条天皇のブレーンとして有名な大江匡房がいる
- 赤染衛門の子孫が毛利氏に続いている可能性もある
赤染衛門は、おしどり夫婦であり、子どもの出世を手助けしたりするなど、非常に家族への思いが強い人物であったことが伺えます。そのような赤染衛門だからこそ、倫子なども赤染衛門からのお願いを聞き入れてくれたのかもしれませんね。



