豊臣秀長の子孫は現在まで続いてる?家系図で簡単に解説!豊臣秀吉との関係は?
豊臣秀長(1540(天文9)〜1591(天正19))は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。
豊臣秀吉の右腕的存在として、その出世を陰ながら支えました。
また、2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、仲野太賀さんが演じられることでも話題となっています。
そんな豊臣秀長の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
この記事では、豊臣秀長の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。
目次
豊臣秀長の家系図
【豊臣秀長の家系図】
豊臣秀長はどんな人?
【豊臣秀長のプロフィール】
豊臣秀長(とよとみひでなが) 1540年(天文9年)〜1591年(天正19年) 享年:52歳
父:竹阿弥/母:大政所(なか)
正室:智雲院
側室:お藤
子:与一郎、おみや、大善院(おきく)
豊臣秀長は、1540年(天文9年)に、竹阿弥と大政所の子として尾張国にて誕生しました。
若い頃は、地元にて農業に携わっていた豊臣秀長でしたが、兄・豊臣秀吉の勧めに従い、武士の道を歩み始めることになります。
その後は、豊臣秀吉を政務や軍事面で補佐し、豊臣家の天下統一に大きく貢献しました。
子どもは3人授かりましたが、どの子も子を残すことなく亡くなってしまいます。
豊臣秀長と豊臣秀吉は兄弟
豊臣秀長と豊臣秀吉は、異父兄弟です。
つまり、母親は同じですが、父親が違います。
そんな2人は非常に厚い信頼関係で結ばれていました。
元々、豊臣秀長は地元で農家として働いていくつもりでしたが、織田信長に奉公し、部下を探しに来た豊臣秀吉がスカウトしたことによって、武士としての道を歩み始めるのです。
兄としても、背中を預けるのであれば、信頼できる人物がいいと思ったのかもしれません。
そんな期待に応えるように、豊臣秀長は豊臣秀吉のサポートをしていきます。
この2人の信頼関係を表すエピソードがあります。
ある時、豊臣秀吉が織田信長の命に背き、蟄居謹慎(自宅の一室に謹慎させる刑)を命じられたことがありました。
その際、豊臣秀吉は織田信長に謝罪するために、連れ帰っていた人質を差し出そうと考えます。
織田信長はかなり激怒していたため、謝罪の結果次第では全員処される可能性もあり、豊臣秀吉の家臣一同は不安になっていました。
蜂須賀正勝は、「万が一の場合は、短刀1本でも戦って死にましょう」と悲観していていたくらいです。
しかし、そんな中でも、豊臣秀長だけは、控えの間から見える庭の菊を静かに眺めながら、落ち着いた様子で待っていたと言われています。
そして、豊臣秀吉は、ただ謝罪するだけではなく、人質を差し出して作戦が順調であることをアピールし、さらに自身の領地を増やしてほしいとまで要求したのです。
結果的に、織田信長は豊臣秀吉を許し、領土拡大も認めました。
豊臣秀長は、兄の度胸と知略を兼ね備えた力を信頼し認めていたからこそ、落ち着いて待っていられたのでしょう。
このように2人は固い絆で結ばれており、まさに表裏一体の関係で天下統一を果たしていったのです。
豊臣秀長の子孫は途絶えてしまった
豊臣秀長は全部で3人(一男二女)の子どもに恵まれました。
しかし、長男である与一郎は若くして亡くなってしまいます。
さらに、長女・おみやも、豊臣秀長が養子として迎えた豊臣秀保と結婚しましたが、豊臣秀保が僅か17歳で亡くなってしまった後は、どうなったのかが不明なままです。
次女・おきくは、豊臣秀吉の命で、毛利秀元に嫁ぎますが、23歳のときに毛利秀元の子を腹に宿しながら病死してしまいました。
以上のことから、豊臣秀長の子たちはいずれも短命で、子を残さなかったことから、豊臣秀長の子孫は途絶えてしまったのです。
豊臣秀長は養子を3人迎えている
先程もお伝えしたように、豊臣秀長は3人の子どもを授かりましたが、いずれも短命で子を残しませんでした。
そのため、家を存続させるためにも、豊臣秀長は養子を迎えています。
養子は以下の3人です。
・藤堂高吉
丹羽長秀の三男で幼名は仙丸です。豊臣秀長の養子として迎え入れられましたが、豊臣秀吉の命で豊臣秀保が正式な後継者となったため、今度は藤堂高虎の養子となりました。
・豊臣秀保
豊臣秀長の姉・智と三好吉房の三男です。豊臣秀吉から見ると甥の立場であったため、幼少期から豊臣家の重要人物として扱われていました。豊臣秀長の養子となると、豊臣秀長の長女・おみやを正室に迎えました。しかし、僅か17歳で亡くなってしまいます。
・岩
名古屋山三郎の妹です。豊臣秀長の長男・与一郎の正室となり、与一郎の死後一旦養女となりました。その後は、森忠政の継室となっています。
このように、養子を迎えているものの、豊臣秀長の血が残されることはなく、家も存続できませんでした。
豊臣秀長に関するQ&A
豊臣秀長に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 豊臣秀長の死因は?
- 豊臣秀長と徳川家康の関係は?
- 豊臣秀長の家臣には誰がいた?
豊臣秀長の死因は?
豊臣秀長は、1591年(天正19年)の1月22日に、大和国の郡山城にて息を引き取りました。(享年52歳)
死因としては、長年にわたる病気が原因というのが通説ですが、その詳細ははっきりとは判明していません。
1586年頃から、豊臣秀長は頻繁に湯治に訪れるようになり、体調が悪化していたことが伺えます。
また、1589年以降は病状が本格的に悪化しており、1590年の小田原征伐の際には参加できなかったことが記録されているのです。
「医学天正記」という当時の医学書には、豊臣秀長についての記載があり、その症状からすると胃腸系の疾患だったのではないかと推測されています。
豊臣秀長と徳川家康の関係は?
豊臣秀長と徳川家康は、実は遠い親戚関係にありました。
徳川家康の実母・於大の方は、三河国刈屋城主の水野忠政の娘です。
そして、その水野忠政の曽祖父にあたる水野貞守という人物には、水野甚五右衛門為善という弟がいました。
その水野甚五右衛門為善の孫である水野藤次郎為春は尾張国春日井郡迫間村に移住し、男子ができます。
その男子が、豊臣秀長・旭兄妹の実父である竹阿弥こと水野昌盛だったのです。
このように、豊臣秀長と徳川家康は遠い親戚だったのです。
その血のおかげかはわかりませんが、2人は気の合う関係だったらしく、度々協力関係を築いています。
時には、お互いの家族にまで贈り物を送り合うなどしていたくらい、親交を深めていました。
豊臣秀長の家臣には誰がいた?
豊臣秀長の家臣というと、藤堂高虎が有名ですが、その他にも優秀な人物が多く家臣として仕えていました。
その一部をご紹介していきます。
豊臣秀長の「三家老」
- 横浜一庵(筆頭重臣)(5万石)
- 羽田正親(4万8千石)
- 小川下野守(3万5千石)
豊臣秀長のその他の家臣
- 宇多頼忠(1万3千石)
- 小堀正次(5千石)
- 吉川平介(7千石)
- 本多俊政(大和高取1万5千石)
- 桜井家一(3千石)
また、中井正清や小堀政一などといった築城、造園に長じた人物も多数登用しています。
それらの人々は、豊臣秀長の死後、徳川家康に召し抱えられ栄達し、近世の建築に寄与しました。
まとめ:豊臣秀長は子どもを3人残したが、子孫は続かなかった
豊臣秀長は、2人の妻との間に、子どもを3人授かりました。しかし、いずれも短命であり、子を残さなかったため、豊臣秀長の子孫は続くことはありませんでした。
今回の内容をまとめると、
- 豊臣秀長は3人の子どもを授かった
- 豊臣秀長の子供は、いずれも短命で子を残さなかったため、子孫は続かなかった
- 豊臣秀長が養子に迎えた子も若くして亡くなってしまい、家も断絶してしまった
豊臣秀長は、豊臣秀吉が天下統一をするのに、非常に重要な役割を担っていたと言われています。それほどまでに頭の切れる豊臣秀長の血が後世に残らなかったことは、非常に残念でなりません。



