藤原斉信の家系図を簡単に解説!子孫は続いている?藤原道長との関係は?
藤原斉信(967(康保4)〜1035(長元8))は、平安時代中期に活躍した公卿であり歌人です。
藤原道長の腹心として一条天皇の治世を支え、源俊賢、藤原公任、藤原行成とともに「四納言」と称されました。
また、2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、金田哲さんが演じられることでも話題となっています。
そんな藤原斉信の子孫は現在まで続いているのでしょうか?
この記事では、藤原斉信の家系図を見ながら、その子孫について簡単に解説していきます。
目次
藤原斉信の家系図をわかりやすく解説!
【藤原斉信の家系図】
藤原斉信のプロフィール
【藤原斉信のプロフィール】
藤原斉信(ふじわらのただのぶ):967年(康保4年)〜1035年(長元8年) 享年:69歳
父:藤原為光/母:藤原敦敏の娘
妻:不詳
子:永慶、良斉、源頼清室、源宗家室、藤原長家室、源定宗室
藤原斉信は、967年(康保4年)に藤原為光と藤原敦敏の娘との間に誕生しました。
幼少期から3歳年上の兄・藤原誠信に同座して、あらゆる高等教育を受けます。
そして、その才を見込まれ、花山天皇朝、一条天皇朝において重要な役職につきました。
また、政治だけでなく、和歌や漢詩、朗詠、管楽にも通じており、文化人としても名高い人物です。
『後拾遺和歌集』や『類聚句題抄』、『新撰朗詠集』などには、藤原斉信の作品が多数残っています。
藤原斉信の子孫は途絶えてしまった
藤原斉信は、妻の詳細は判明していませんが、子供を6人(2男、4女)授かりました。
しかし、子どもたちは母親の身分が低かったためか、早くに仏門に入ってしまい、子孫を残すことはしませんでした。
そのため、藤原斉信の血は子の代で途絶えることとなってしまったのです。
また、藤原斉信の家としては、養子を迎え入れ存続させていきましたが、そちらも長くは続かず断絶してしまいました。
藤原斉信と藤原道長の関係は、いとこ
藤原斉信と藤原道長は、父親同士が兄弟のため、いとこということになります。
年齢も1つ違いで、藤原道長のほうが上でした。
そのため普通にいったら、藤原斉信は藤原道長のことを意識して育ったのかと考えられますが、そのようなことはなかったと言われています。
当時の藤原道長の家はまだそんなに権力をもっておらず、同世代で見るならば、太政大臣家の藤原公任がダントツにリードしている状態でした。
つまり、藤原斉信は藤原公任のことを意識することはあれど、藤原道長のことはライバルとすら思っていなかったのです。
しかし、時が経ち、藤原道長が権力を持つようになると、藤原斉信は藤原道長に近づこうと一心に努め始めます。
その最たるものが、自身の娘を藤原道長の六男・藤原長家に嫁がせることでした。
藤原長家が妻を亡くした際、まだ半年も経っていないうちに、藤原斉信は娘を後妻に迎えるように頼み込んだのです。
藤原長家はなかなか承知しませんでしたが、最終的には藤原斉信の娘婿となり、婚礼の儀が執り行われました。
実はこの時、藤原斉信の家で死者が出ていたのです。
身内の死は縁起が悪いとされていた平安時代では、本来このようなことがあったら婚礼は延期です。
しかし、せっかくのチャンスを逃してはなるまいと、藤原斉信はこのことを秘密にして婚礼を進めました。
それほどまでに、藤原斉信はこの婚礼にかけていたのかもしれません。
このように半ば無理やり婚礼を進めたりもしていた藤原斉信でしたが、婿である藤原長家のことは丁重に扱っていたと伝えられています。
藤原斉信に関するQ&A
藤原斉信に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 藤原斉信は清少納言に評価されていた?
- 藤原斉信と紫式部は中宮を盛り立てる同士だった?
- 藤原斉信の兄は藤原斉信の出世のせいで憤死した?
藤原斉信は清少納言に評価されていた?
藤原斉信との交流の様子を清少納言は『枕草子』に記しています。
その代表的なものが以下のエピソードです。
あるとき、藤原斉信は4月なのに七夕の詩を詠んでしまいます。
そのことに対して、清少納言は
「気の早い七夕だこと」
と言って咎めます。
しかし、その後の七夕祭に藤原斉信が参加すると、今度は
「4月の詩を朗詠しよう」
と言って、前回の自身の失敗を踏まえた発言をしたのです。
これを聞いた清少納言は、
「世の多くの男達は、過去のことなどすぐに忘れてしまうのに、過去のことを忘れないとは素晴らしい」
と称賛しました。
この当時は、清少納言が仕えていた中宮・定子やその実家が衰退しつつある時期でした。
そのため、過去の栄光が心の拠り所となっていた清少納言にとっては、過去を忘れない藤原斉信が非常に好ましく思えたのでしょう。
藤原斉信と紫式部は中宮を盛り立てる同士だった?
藤原斉信は、一条天皇朝になると、中宮大夫として中宮・彰子の後宮に出入りするようになります。
すると、当然彰子に仕えていた紫式部とも交流が始まるわけです。
しかしながら、藤原斉信は身分の低い女房の相手を好まなかったとされており、紫式部をやきもきさせることもありました。
なぜなら、そもそも身分の高い女房は人前に出たがらないからです。
このようなことから、紫式部は藤原斉信のことをあまりよく思っていないのかと思いきや、そんなことはありませんでした。
藤原公任が「若紫はいませんか」と酔っ払って言ったと言われている祝いの席では、藤原斉信は決して酔っ払ったりなどしていませんでした。
それどころか、場の進行を上手く取り仕切り、仕事に邁進していたということが、紫式部によって記録されているのです。
つまり、仕事をきちんと行う人物であるという評価がされていたということですね。
同じ中宮を盛り立てる同士として、認めていたのかもしれません。
藤原斉信の兄は藤原斉信の出世のせいで憤死した?
藤原斉信は幼少期から兄と一緒にあらゆる高等教育を受けてきました。
当時は、基本的には長幼の序ですから、長男のほうが先に官位が上がっていくのが普通でした。
しかしながら、藤原道長が権力を持ち、藤原斉信がその信頼を得て引き立てられると、権中納言に命じられ、官位で兄を越えてしまうのです。
これにより、兄は藤原斉信と藤原道長を恨みながら、自ら断食して憤死してしまいます。
ここから考えると、当時は長幼の序が基本であったけれども、一定程度の能力主義は採られていたのだということがわかりますね。
まとめ:藤原斉信の家系図からは藤原道長といとこということがわかり、子孫は続かなかった
藤原斉信は、時の権力者である藤原道長とはいとこの関係でした。自身は子供を6人残しましたが、いずれも子を残すこと無く、その血は途絶えてしまいました。
今回の内容をまとめると、
- 藤原斉信と藤原道長は父親同士が兄弟のいとこ
- 藤原斉信は子供を6人残したが、子孫は続かなかった
- 藤原斉信が家を存続させるために養子を迎え入れたが、家も長くは続かず断絶した
せっかく生まれた我が子が、早くに仏門に入ってしまい、自身の跡を継いでくれないとなったとき、藤原斉信は何を思ったのでしょうか?いつの時代も多くの人が我が子に跡を継いでほしいと望んでいますし、藤原斉信も本当はそう思っていたのかもしれませんね。


