喜多川歌麿はどんな人?年表から簡単に解説!代表作は?性格は?死因は?
喜多川歌麿(1753?(宝暦3?)〜1806(文化3))は、江戸時代に活躍した浮世絵師です。
国内ではもとより、海外でも評価の高い数々の作品を生み出しました。
また、2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、染谷将太さんが演じられることでも話題となっています。
そんな喜多川歌麿はどんな人なのでしょうか?
この記事では、喜多川歌麿の年表を見ながら、その人物像について簡単に解説していきます。
目次
喜多川歌麿のプロフィール。喜多川歌麿はどんな人?
喜多川歌麿(きたがわうたまろ) 1753?年(宝暦3?年)〜1806年(文化3年) 享年:54歳
喜多川歌麿は、葛飾北斎、歌川広重、東洲斎写楽などと並び、世界的に知られている浮世絵師です。
しかし、その出生に関しては謎に包まれており、どこで生まれたか、両親は誰なのか、生年はいつなのかなど、全く記録がありません。
没年は判明しているため、年齢から数えて、生年は1753年であろうとする説が有力です。
謎に包まれている喜多川歌麿ですが、蔦屋重三郎に見出されて以降は、黄表紙の挿絵や錦絵を手掛けていくようになります。
寛政期に入ると、評判の町娘や遊里の女性たちを魅力的に描き、浮世絵美人画の第一人者としてその名を知らしめていきました。
寛政の改革にも負けず、常に新しい表現手段を模索し続けていましたが、1804年には幕府から処罰を受け、その2年後には息を引き取りました。
喜多川歌麿の作品は、本人が亡くなって以降も、日本に留まらず海外においても高く評価され続けています。
喜多川歌麿の年表
【喜多川歌麿の年表】
- 1753年(宝暦3年):0歳
誕生する
- 1770年(明和7年):17歳
鳥山石燕に入門する
- 1783年(天明3年):30歳
歌麿名義での最初の作品「青楼仁和嘉女芸者部」「青楼尓和嘉鹿嶋踊 続」を刊行する
- 1788年(天明8年):35歳
蔦屋重三郎を版元として狂歌絵本『百千鳥』『画本虫撰』『汐干のつと』などを版行する
- 1790年(寛政2年):37歳
「婦女人相十品」「婦人相学十躰」といった美人大首絵で人気を博す
- 1794年(寛政6年):41歳
「北国五色墨」を刊行する
- 1804年(文化元年):51歳
「太閤五妻洛東遊観之図」を描いたことがきっかけで、幕府から処罰される
- 1806年(文化3年):54歳
病死
喜多川歌麿の代表作。海外でも高い評価を受けている?
美人画で有名な喜多川歌麿ですが、それを描き始める前には役者絵や風景画なども描いていました。
喜多川歌麿が最初に評価されたのは、美人画ではなく動植物の精緻な絵だったのです。
その際に描かれていた代表作が以下の通りです。
- 『画本虫撰』
- 『百千鳥狂歌合』
- 『潮干のつと』
そして、この喜多川歌麿の徹底した観察眼は、次第に女性美を追求することに使われていきます。
蔦屋重三郎にその才を見出されると、喜多川歌麿は錦絵、特に美人画に力を入れ始めるようになりました。
その際に描かれていた代表作が以下の通りです。
- 「姿見七人化粧」びん直し
- 江戸三美人
- 「婦女人相十品」ポッピンを吹く娘
- 難波屋おきた
- 高島おひさ
- 富本豊雛
- 『高名美人六家撰』
- 『六玉川』
- 婦人手業操鏡
- 鮑取り
- 女職蚕手業草
以上のように、喜多川歌麿は、その生涯絵筆を折ることなく、ひたすらに作品を残し続けたのです。
また、江戸時代、浮世絵はとても安価で、気軽に買える庶民の娯楽品で、肉筆画はともかく、木版画は芸術品として評価されることはほとんどありませんでした。
喜多川歌麿の作品も例に漏れず、当初は芸術品としての評価はあまりされていなかったようです。
さらに、明治時代になると、浮世絵は芸術品としてはおろか、娯楽品としての価値すらも失われていってしまいます。
こうなってしまっては、普通であれば作品は残らなかったかもしれません。
しかし、江戸で廃れていく一方で、19世紀後半のパリではジャポニズムブームが沸き起こっていました。
陶磁器とともに浮世絵にも人気の火がつき、優れた浮世絵作品は海外のコレクターによって、次々に回収されていったのです。
喜多川歌麿の作品たちも、その多くが海外へと流出していきました。
今では、喜多川歌麿の作品は、ロンドンの大英博物館、パリのギメ美術館、ボストン美術館など、欧米の美術館や博物館に所蔵されています。
以上のことから、喜多川歌麿の作品は、日本国内よりも、海外で高く評価されていたということが伺えますね。
喜多川歌麿の死因
喜多川歌麿は、1806年10月31日に亡くなりました。
死因は、病死だったと言われています。
しかし、何の病気であったかの記録は残っていないため、詳細は不明です。
晩年、幕府から処罰され、手鎖50日を受けた喜多川歌麿は、心身ともに衰弱しており、その後病気になり、回復の見込みがなくなったと言われています。
版元たちは、喜多川歌麿が先が長くないと知ると、喜多川歌麿と最後の仕事をするために、こぞって仕事を依頼しに来ました。
そのため、喜多川歌麿は没するまで絵筆を折ることなく、精力的に作品を残し続けたのです。
喜多川歌麿は自己主張・自己顕示欲の強い人物だった
喜多川歌麿の性格を表すエピソードをいくつか簡単にご紹介していきます。
まず、喜多川歌麿はプライドが高く高飛車な性格だったのではないかとされています。
その証拠に、美人大首絵で一躍人気絵師となると、喜多川歌麿は鶴屋喜右衛門のもとから出版した「錦織歌麿形新模様」というシリーズ作品の中に、美人画の大家としての自負や、同時代の絵師や版元への批判を文章で書き込んだのです。
他の絵師のことを「蟻のように出てくる木の葉絵師」と称し、「私の画料は、この鼻とともに高い」と自信満々な記述がありました。
また、喜多川歌麿は自己主張・自己顕示欲の強い人物だったとも考えられています。
それは、喜多川歌麿の作品に出てくる人物を見ていると伺うことが出来ます。
喜多川歌麿の作品の人物の中には、何点か「自画像ではないか」と推測されているものがあるのです。
そして、この自画像と推測されているものは、どれも風流な美男子で描かれています。
これは他の絵師にはあまり見られないことのため、喜多川歌麿はかなり自己主張・自己顕示欲の強い人物だったのではないかと考えられているのです。
こうしたことから、喜多川歌麿はかなりギラギラしたアクの強い人物なのかと思いますが、その一方で非常に繊細な一面もあったようです。
親族の女性(妻と考えられている)が亡くなった記録のある年から、喜多川歌麿は2年近く、ほとんど作品を発表しませんでした。
その女性の看護に徹し、没後しばらく筆を取れなかったという可能性があります。
こういう繊細な一面もあったからこそ、繊細で品のある女性像を描き続けられたのかもしれませんね。
喜多川歌麿に関するQ&A
喜多川歌麿に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 喜多川歌麿と蔦屋重三郎の関係は?
- 喜多川歌麿は晩年処罰された?
- 喜多川歌麿は何文化の際に活躍した?
喜多川歌麿と蔦屋重三郎の関係は?
喜多川歌麿が浮世絵師として一世を風靡するまでになったのは、蔦屋重三郎の存在があります。
蔦屋重三郎とは1781年(天明元年)に出会います。
そこで、蔦屋重三郎は喜多川歌麿の才能を見出し、様々な作品で喜多川歌麿を起用するようになりました。
一時期は、自宅に居候させて抱え込んでいたという記録が残るほど、蔦屋重三郎は喜多川歌麿の才能に惚れ込んでいたようです。
また、喜多川歌麿の女性を描く才能に気づき、美人画に専念させたのも蔦屋重三郎だったと言われています。
喜多川歌麿の主要作品の大部分は蔦屋重三郎が刊行しました。
このように、喜多川歌麿が出世したのは、蔦屋重三郎の存在が大きかったと言えるでしょう。
喜多川歌麿は晩年処罰された?
喜多川歌麿は、幕府の様々な規制の目をかいくぐり活動を続けていましたが、1804年(文化元年)に発表した『絵本太閤記』関連の錦絵によって処罰を受けることとなってしまいます。
【寛政の改革による規制】
1790年〜:出版統制令
- 時事問題を「一枚絵」にして素早く刊行することを禁止
- 好色本は絶版
- 新刊本の奥書には、作者と版元の実名を必ず記載
- 黄表紙や洒落本の作者や版元を弾圧
- 華やかな構図やなまめかしい女性の姿を描いた美人画を規制
一説には、その罰は3日間の入牢と手鎖50日(鉄製の手錠をかけた状態で自宅に50日間謹慎)だったと言われており、喜多川歌麿はそのまま衰弱していき、2年後に息を引き取りました。
喜多川歌麿は何文化の際に活躍した?
喜多川歌麿が活躍したのは、化政文化と呼ばれる時期です。
化政文化は、文化・文政年間(1804〜1830年)が最盛期にあたるので、両方の文字を取って化政文化と呼ばれています。
江戸を中心に栄えた町人文化で、文化の担い手が都市の豪商だけではなく庶民まで含まれ、地方まで文化が広まっていきました。
浮世絵が発達したのもこの時期であり、喜多川歌麿の他にも、葛飾北斎や歌川広重、東洲斎写楽なども活躍しました。
まとめ:喜多川歌麿は世界中で評価される浮世絵師だった
喜多川歌麿は、その生涯が多くの謎に包まれています。しかし、美人大首絵で一躍人気絵師となり、浮世絵界を牽引していた人物であったことには違いありません。
今回の内容をまとめると、
- 喜多川歌麿は江戸時代に活躍した浮世絵師
- 喜多川歌麿は、美人大首絵を描き一躍人気絵師となった
- 喜多川歌麿の作品は日本国内に留まらず、海外でも高い評価を受けている
寛政の改革や流行によって、江戸での浮世絵の価値は下がっていくばかりでした。下手すると、喜多川歌麿の作品のほとんどは現在まで残っていなかったかもしれません。しかし、海外でも評価されたことによって、今でも多くの作品が残っているのです。良い作品はこうして自然と評価され、残っていくものなんでしょうね。


