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一条天皇の妻は何人いた?最も愛していた妻は定子?彰子は国母となった?

一条天皇(980(天元3)〜1011(寛弘8))は、日本の第66代天皇です。

藤原道長が絶大な権力を握っている中、摂政関白と協力して政治を行っていました。

また、2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、塩野瑛久さんが演じられることでも話題となっています。

そんな一条天皇の妻は、何人いたのでしょうか?

この記事では、一条天皇の妻について簡単に解説していきます。

一条天皇の妻は全部で5人いた

一条天皇の妻といえば、定子と彰子が有名ですが、その他にも3人おり、全部で5人の妻がいました。

・定子

一条天皇に最初に入内したのが定子です。

一条天皇に最も愛され、子供も3人授かりました。

しかし、第三子を生んだ後、定子は亡くなってしまいました。

・義子

義子が入内したのは、長徳の変で定子の後見が没落した後です。

この頃から、男皇子を産む可能性を上げるために、他の后も次々に入内していきました。

義子は、血筋的には定子よりも高貴であり、有力な后となるはずでしたが、一度も子を授かることはありませんでした。

・元子

義子があまり一条天皇から寵愛を受けていないことを受けてか、入内したのが元子です。

元子も義子と同じく定子よりも高貴な血筋でした。

元子は義子と違い、一条天皇に気に入られ、一度は懐妊します。

しかし、臨月を過ぎても出産することはなく、子宮から大量の水が出ただけで、腹部は平らになり終わってしまいました。

このように、元子は子を成せませんでしたが、その後も一条天皇からの寵愛は続いたと言われています。

・尊子

尊子は、御匣殿別当として入内しました。

しかし、一条天皇は尊子を気に入らなかったのか、寵愛の形跡が見られません。

懐妊もしていなければ、女御になったのも入内してから2年以上経ってからとなりました。

・彰子

一番最後に入内したのが彰子です。

入内した当初、彰子はまだ12歳であったため、しばらくは一条天皇から女性として寵愛を受けることはありませんでした。

しかし、その後成長してからは、見事に2人の男皇子を出産し、その子は2人とも天皇に即位しました。

また、妻とはなっていませんが、一条天皇が愛した女性として、定子の妹である御匣殿も挙げられます。

『栄花物語』によると、一条天皇はこの御匣殿も寵愛して懐妊させてしまったようです。

一条天皇は、この御匣殿に、亡き最愛の人・定子の面影を見出し、愛してしまったのかもしれません。

しかし、御匣殿も妊娠中に亡くなってしまいます。

一条天皇はこのことにひどく落胆したと言われています。

一条天皇は史上初の一帝二后だった

一条天皇の元に一番初めに入内したのは定子でした。

そして、一条天皇も定子のことをとても深く寵愛しました。

しかし、長徳の変の後から、定子は後ろ盾を失い、他にも妻を迎えることとなります。

藤原道長が権力を持ち始めると、12歳の彰子を入内させます。

幼い彰子はまだ一条天皇の寵愛の対象にはなりませんでしたが、藤原道長は権力を駆使し、彰子を立后させ、定子を「皇后」、彰子を「中宮」としました。

これが、史上初の「一帝二后」の誕生となります。

こうして定子と彰子が一条天皇の正妻となりましたが、その直後、定子が亡くなってしまったことにより、一帝二后は解消されました。

一条天皇の妻・彰子は国母となった

一番最後に入内した彰子でしたが、中宮となったこともあり、定子の忘れ形見である敦康親王の養母となりました。

彰子は敦康親王のことを、とても大事に育てたと言われています。

さらに、彰子は自身も一条天皇との子を、2人授かります。

父親からの期待にも応えることができ、彰子はさぞ安心したことでしょう。

そんな中、一条天皇が病に倒れてしまいます。

一条天皇は、跡継ぎとして敦康親王を望んでおり、彰子もそれを望みました。

しかし、藤原道長は、彰子に相談無しで彰子の子である敦成親王を皇太子としてしまいます。

このことに彰子は藤原道長を恨みましたが、父親に逆らえること無く、そのまま次期天皇は三条天皇、皇太子は敦成親王となりました。

そして、彰子は皇太后となります。

その後、三条天皇は眼病の悪化と藤原道長の圧力を受け、敦成親王に譲位することになります。

この時、敦成親王はわずか9歳で、政治を行うには幼すぎました。

そのため、彰子が敦成親王とともに政治を行っていくこととなり、政務全般に積極的に関わっていくこととなります。

このことから、彰子は「国母」として敬われる立場となるのです。

ちなみに、三条院亡き後、皇太子だった敦明親王は、後ろ盾を無くしたとして自ら皇太子を辞退しています。

彰子はこのときも、次期皇太子候補として敦康親王を推したと言われていますが、それが通ることはなく、選ばれたのはまたしても彰子の子・敦良親王でした。

こうして、彰子は自身の思いとは裏腹に、2人の皇太子の母となるのです。

『大鏡』では、彰子のことを「天下第一の母」と称しています。

一条天皇が最も愛していた妻は定子だった

5人の妻がいた一条天皇でしたが、最も愛していたのは定子だったと考えられています。

そのことを象徴するエピソードをいくつかご紹介していきます。

  • 兄の不祥事の責任をとって剃髪して出家した定子を、再び宮中に呼び戻した
  • 子の脩子内親王と共に定子を識曹司(しきのぞうし)に移した

(※識曹司は、内裏の東側に隣接していることから、人目を忍んで通いやすい場所だった)

  • 定子の忘れ形見である敦成親王を跡継ぎとしようとした
  • 定子亡き後、その面影を求めて、定子の妹に手を出した
  • 辞世の句において、定子の辞世の句への返歌をした(諸説あり)

以上のように、一条天皇は定子に深い愛を捧げていました。

出家した定子を呼び戻したことについては、藤原実資は『小右記』において、

「天下、甘心せず」

(宮中が歓迎ムードとは程遠く、天下は感心しなかった)

「太(はなは)だ稀有なことなり」

(とても珍しいことである)

以上のように、言葉を重ねて、一条天皇の行為を批判しています。

このように、一条天皇の定子への思いは、周囲の批判が非常に多かったようです。

しかし、そんなことを気にせず、定子への愛を貫き通したのですから、よほど愛が深かったのでしょう。

一条天皇に関するQ&A

一条天皇に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 一条天皇の死因は?
  • 一条天皇はイケメンだった?
  • 一条天皇は大の猫好きだった?

一条天皇の死因は?

一条天皇の死因は病死と言われていますが、具体的な病名は判明していません。

発病からわずか1ヶ月で亡くなってしまったことから、発病時にはかなり病状が進行した状態だったことが伺えます。

一条天皇はイケメンだった?

一条天皇はイケメンだったという話があります。

そのことについては、『栄花物語』に書かれています。

「この上は、いみじう御かたちよりはじめ、きよらにあさましきまでぞおはします」

現代語訳:この帝は、ご容貌をはじめとして、気高く美しく、ただただ驚き入るほかない様子である

このように、一条天皇は見た目だけでなく、放つ雰囲気も気高く美しいと絶賛されているのです。

ただし、『栄花物語』は藤原道長の栄華を賛美する内容の歴史物語なので、藤原道長の娘の夫である一条天皇の容姿についても、多少の誇張が入っている可能性はあります。

一条天皇は大の猫好きだった?

一条天皇は大変な愛猫家としても知られています。

一条天皇の愛猫家がわかるエピソードをいくつかご紹介していきます。

・猫のために産養い(うぶやしない)を行った

一条天皇は、自身が飼っていた猫が子を生むと、産養いを行っていました。

産養いとは、子供が生まれた初夜から9日目までの奇数の日数に行う祝い事のことです。

しかし、これは通常人間の子供が生まれた際に行うものでした。

そのため、このことについて、藤原実資は『小右記』において「全く理解できない」と記しています。

一条天皇は、この祝い事に右大臣、左大臣を呼び、盛大に子猫の誕生を祝っていたそうです。

それほどまでに、子猫の誕生を喜ばしく思っていたことがわかりますね。

・猫に位を与えた

一条天皇が普段いる内裏には、相応の身分の者しか入れないことになっていました。

そこで、一条天皇は、猫がいつでも入ってこれるようにと、猫に「命婦(みょうぶ)のおとど」という名をつけます。

命婦とは、従五位下の位を持つ女性のことです。

つまり、一条天皇の猫は、位を与えられ貴族の仲間入りを果たしたどころか、さらに昇殿を許されたので殿上人ともなったのです。

いかに猫のことを特別待遇していたのかが伺えます。

ちなみに、命婦のおとどは、ペットとして飼われた猫の中で、名前を持つ特定の個体として記録が残る最古の例となっています。

・猫を守るために犬を追放した

一条天皇は、先程の命婦のおとどに、馬の命婦という名の乳母をつけ大切に育てていました。

しかし、あるとき一条天皇が馬の命婦に対して怒り心頭に発する出来事が起きてしまいます。

その日は、命婦のおとどが縁先で日差しに当たりながら居眠りをしていました。

すると、馬の命婦は行儀が悪いとして注意しますが、命婦のおとどは一向に言うことを聞く気配がありません。

そこで、馬の命婦は皇后・定子が飼っていた犬である翁丸(おきなまる)に、

「命婦のおとどを脅かしておやり」

と、指示を出します。

翁丸が指示通り脅かすと、命婦のおとどは驚き、慌てて一条天皇のいる御簾の中へと逃げ込みました。

事情を知った一条天皇は大激怒し、翁丸を宮中から追放するとともに、馬の命婦も乳母から外すことにしたのでした。

翁丸は、後に再び一条天皇に許され、宮中に戻ってこれたそうです。

まとめ:一条天皇の妻は5人おり、最も愛したのは定子だった

一条天皇の妻としては、定子と彰子が有名ですが、全部で5人いました。その中でも、最も愛したのは定子であったと考えられています。

今回の内容をまとめると、

  • 一条天皇の妻は全部で5人
  • 一条天皇は、史上初の一帝二后だった
  • 一条天皇が最も愛した妻は、定子だったと考えられている

一条天皇は、最も愛した定子との子を自身の跡継ぎとしたかったのでしょう。彰子もその意を汲もうとしてくれていました。しかし、藤原道長によってその思いはないがしろにされてしまいます。このことから、いかに当時の藤原道長の権力が強かったのかが伺えますね。

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