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嵯峨天皇のやったことを簡単に解説!薬子の変とは?後院や花見を最初にやった?

嵯峨天皇(786(延暦5)〜842(承和9))は、平安時代前期に活躍した日本の第52代天皇です。

漢文詩、文筆に長け、能書家として知られており、空海や橘逸勢らと共に「三筆」の1人として数えられています。

そんな嵯峨天皇はどんなことをやったのでしょうか?

この記事では、嵯峨天皇がやったことを簡単に解説していきます。

嵯峨天皇がやったこと①|薬子の変を経て平穏な治世を勝ち取った

嵯峨天皇は809年に、兄・平城天皇の病気による譲位を受けて即位しました。

しかし、上皇となった途端に病気が治った平城上皇が、藤原薬子、藤原仲成と共に政治権力の座に戻ろうとした結果、嵯峨天皇と対立します。

こうして、嵯峨天皇と平城上皇で権力を争う「薬子の変」が起きるのです。

この薬子の変は、嵯峨天皇の勝利に終わります。

その結果、平城上皇は入道し、藤原薬子は自殺、藤原仲成は射殺されるなど、嵯峨天皇に敵対する勢力は一掃されることとなりました。

その後は、弘仁・天長・承和の約30年間、嵯峨天皇の権威と指導のもとに平穏な治世が続き、文化が栄えることとなったのです。

この文化を「弘仁文化」と言います。

嵯峨天皇がやったこと②|法令の整理や朝廷儀式の整備、年中行事の制定などを行った

薬子の変を経て、平穏を勝ち取った嵯峨天皇は、法令の整理や朝廷儀式の整備、年中行事の制定などを行いました。

具体的には、まず、基本法たる律令を補足・修正するための法令集『弘仁格式』を編纂しました。

「格」は律令の補足、「式」は施行細則が記されています。

そして、朝廷の儀式には、唐制の儀礼を取り入れました。

同時に、平安京の十二門も唐風の名に改めています。

さらに、年中行事においては『内裏式』にまとめました。

嵯峨天皇の時代より始まった年中行事の一例は以下のとおりです。

  • 内宴
  • 大祓
  • 朝覲(ちょうきん)行幸
  • 御贖物(みあがもの)
  • 月見

嵯峨天皇がやったこと③|三筆として弘仁文化の発展に寄与した

嵯峨天皇は、詩文や書道に優れており、「三筆」の1人として数えられるくらいの実力者でした。

また、唐文化への強い憧憬も持っていたため、その周囲には空海や小野岑守(みねもり)、菅原清公など才能ある人々が集まっていました。

そのため、周囲の協力もあり、文化の発展に尽力したのです。

具体的には、神泉苑でたびたび詩宴を開いたり、『凌雲集』や『文華秀麗集』、『経国集』などといった勅撰詩集の編纂を行ったりしました。

また、嵯峨天皇は、いけばなの嵯峨御流の開祖と伝わっています。

平安時代の初期、嵯峨天皇は大覚寺の大沢池で、菊ガ島に咲く可憐な菊の花を手折り、殿上の花瓶に挿しました。

その際、嵯峨天皇は、その菊の姿が「天、地、人」三才の美しさを備えていたことに感動し、

「後世花を生くるものは宜しく之を以て範とすべし」

と言ったそうです。

これが、いけばな嵯峨御流の始まりとされています。

嵯峨天皇の自然や草木に対する慈しみの心が、嵯峨御流の礎となり、今現在も受け継がれているのです。

このように、嵯峨天皇は弘仁文化の発展に寄与しました。

嵯峨天皇がやったこと④|子沢山だったため臣籍降下を行い、「源氏」の祖を作った

嵯峨天皇は子沢山の天皇としても知られています。

その子供の数は、わかっているだけでも実に50人です。

しかし、この子供の数は、宮廷にとっては深刻な問題でした。

当時、宮廷には十分な財源がなく、この子供たち全員を内親王、親王にするだけの経済的余裕はなかったのです。

そこで、嵯峨天皇は子どもたちに「源」の姓を与え、臣籍降下させることにしました。

子どもたちは、「源」の姓をもらうことで、天皇の皇位継承権を失いますが、朝廷で高官としての道を歩むこととなります。

これが「源氏」の始まりとなりました。

嵯峨天皇がやったこと⑤|後院や人口庭池の築造、桜の花見など、様々な日本初を行った

嵯峨天皇は、様々な日本初のことを行っています。

  • 後院
  • 人工庭池の築造
  • 桜の花見

・後院

薬子の変を経て平穏を勝ち取った嵯峨天皇でしたが、同様の異変が再発することを危惧して824年に突然退位を表明します。

そして、周りの反対を押し切り淳和天皇に譲位すると、慣れ親しんでいた離宮に移り、政務に一切関与しなくなったのです。

これ以降、太上天皇が宮外に設けた離宮に移り住む習慣が始まり、その離宮のことを「後院」と呼ぶようになりました。

つまり、嵯峨天皇が後院を初めて使用したということになりますね。

ちなみに、嵯峨天皇の最初の後院は「冷然院」と呼ばれます。

・人工庭池の築造

嵯峨天皇は晩年、冷然院を仁明天皇に譲ると、自身は「嵯峨院」に移り住みます。

そこは、豊かな自然が残された土地であり、嵯峨天皇が在位中にもよく行楽に赴いた場所でした。

そして、嵯峨天皇は、この嵯峨院の離宮の目の前に大きな人工池を築きます。

この人工池は、中国の洞庭湖を模して作られたことから庭湖とも呼ばれる、日本最古の人工庭池です。

その名残は今の大沢池と言われています。

・桜の花見

奈良時代までは、日本で花見というと、「梅」の花を見ながら歌を詠むというのが一般的でした。

しかし、これが平安時代になると花の主役が「梅」から「桜」へと移り変わっていきます。

そのきっかけとなったのが嵯峨天皇です。

811年の春に、嵯峨天皇は地主神社に行幸します。

地主神社には、一重と八重が同じ枝に咲く「地主桜」と呼ばれる珍しい桜がありました。

その地主桜に嵯峨天皇は心を奪われ、地主神社に桜の枝を宮中に献上させるように命じ、812年には初めて桜による公式な花見を行いました。

この様子は、『日本後紀』に記されており、これが記録に残る「桜の花見」の初出と考えられています。

嵯峨天皇に関するQ&A

嵯峨天皇に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 嵯峨天皇はどんな人?
  • 嵯峨天皇の書の特徴は?
  • 三筆と三蹟の違いとは?
  • 嵯峨天皇と空海の関係は?

嵯峨天皇はどんな人?

嵯峨天皇(さがてんのう) 786年(延暦5年)〜842年(承和9年) 宝算:57歳

父:桓武天皇/母:藤原乙牟漏

皇后:橘喜智子

妃:高津内親王、多治比高子

夫人:藤原諸夏

女御:百済王慶命、百済王貴命、大原浄子

更衣:飯高宅刀自、秋篠高子、山田近子

子:仁明天皇、源信、源常、源弘、源定、源融、正子内親王、有智子内親王、…他多数

嵯峨天皇は、平安時代前期の第52代天皇で、幼い頃から聡敏で博学で、詩文や書道に優れていました。

809年に平城天皇の譲位を受けて即位すると、律令政治の改革や法令、朝廷の儀礼、年中行事などの整備を行いました。

さらに、代表的な能書家として知られていたことから、「三筆」の1人としても数えられています。

また、皇子女の多くに源(みなもと)の姓を与え、臣籍に降下させ、賜姓源氏の例を開きました。

嵯峨天皇の書の特徴は?

嵯峨天皇は、唐代の書家・欧陽詢(おうようじゅん)を愛好し、また、空海に親近したことから、その書風に影響を受けていました。

特徴としては、

  • 大きい字と小さい字が混在している
  • 曲線のうねりを強めた動的な体勢など、欧陽詢的なものを感じられる
  • 行書草書で書かれており、一点一画の最初から最後まで神経の行き届いた緊張感溢れる書

以上のような点が挙げられます。

また、国宝の「光定戒牒(こうじょうかいちょう)」は、嵯峨天皇の書の代表作と言われています。

三筆と三蹟の違いとは?

三筆も三蹟も、平安時代の代表的な能書家、つまり書道に優れた人々を後世に尊重して呼んだ言葉です。

違う点は、その時期にあります。

三筆は、9世紀頃に活躍した3人、嵯峨天皇空海橘逸勢を指します。

三蹟は、10世紀頃に活躍した3人、小野道風藤原佐理藤原行成を指します。

また、当時からそう呼ばれていたわけではなく、後世の人々が尊崇して呼び始めており、江戸時代あたりになってから定着しました。

嵯峨天皇と空海の関係は?

嵯峨天皇は薬子の変(810)などが起きた関係で、国家が不安定になっていることを憂いていました。

それを解決するために、空海の密教の鎮護国家の修法を信頼し、空海と交流を深めていくことにします。

空海は、唐からの帰国後、嵯峨天皇のお陰で入京することができたこともあり、嵯峨天皇に好意を持っていました。

2人の交流エピソードには以下のようなものがあります。

ある時、空海は自身が滞在していた乙訓寺の庭のみかんのなる木から実を取り、籠に詰めて、自作の詩とともに嵯峨天皇に贈り物をしました。

書や詩を好んでいた嵯峨天皇は、この気遣いに大いに喜んだと言われています。

また、空海は、嵯峨天皇に召し出された折は、屏風や詩書、梵書など、唐から持ち帰ったものの中から、嵯峨天皇が好みそうなものを選んで献上していました。

このように、2人は信頼関係を築いて友人のような関係になり、お互いに最大協力者となったのでした。

まとめ:嵯峨天皇は薬子の変を経て平穏を勝ち取り、文化の発展に尽力した

嵯峨天皇は、兄・平城上皇と対立した薬子の変を経て、敵対勢力を一掃します。そしてその後、約30年間は平穏な治世を築き、文化の発展にも尽力しました。

今回の内容をまとめると、

  • 嵯峨天皇は薬子の変を経て平穏な治世を勝ち取った
  • 嵯峨天皇は、法令の整理や朝廷儀式の整備、年中行事の制定などを行った
  • 嵯峨天皇は、三筆として弘仁文化の発展に寄与した
  • 嵯峨天皇は、臣籍降下を行い、「源氏」の祖を作った

古代史の範囲において、政治的に安定している時期というのは本当に稀なことです。それをやってのけた嵯峨天皇は、よほど優秀な人物だったのでしょう。桜の花見や月見など、現代にまで残る文化を作ってくれたことからも、嵯峨天皇の存在は私達日本人にとって大きな存在だと言えるのかもしれませんね。

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