嵯峨天皇のエピソードを紹介!桜の花見を初めて行った?子沢山だった?
嵯峨天皇(786(延暦5)〜842(承和9))は、平安時代前期に活躍した日本の第52代天皇です。
漢文詩、文筆に長け、能書家として知られており、空海や橘逸勢らと共に「三筆」の1人として数えられています。
そんな嵯峨天皇には、どのようなエピソードがあるのでしょうか?
この記事では、嵯峨天皇のエピソードについて簡単に解説していきます。
目次
嵯峨天皇のエピソード①|嵯峨天皇は初めて桜で公式な花見を行った
奈良時代までは、日本で花見というと、「梅」の花を見ながら歌を詠むというのが一般的でした。
しかし、これが平安時代になると花の主役が「梅」から「桜」へと移り変わっていきます。
そのきっかけとなったのが嵯峨天皇です。
811年の春に、嵯峨天皇は地主神社に行幸します。
地主神社には、一重と八重が同じ枝に咲く「地主桜」と呼ばれる珍しい桜がありました。
その地主桜に嵯峨天皇は心を奪われます。
そこで、地主神社に桜の枝を宮中に献上させるように命じ、812年には初めて桜による公式な花見を行いました。
この様子は、『日本後紀』に記されており、これが記録に残る「桜の花見」の初出と考えられています。
嵯峨天皇のエピソード②|嵯峨天皇は子沢山で、臣籍降下により「源氏」の姓を与えた
嵯峨天皇は子沢山の天皇としても知られています。
その子供の数は、わかっているだけでも実に50人です。
しかし、この子供の数は、宮廷にとっては深刻な問題でした。
当時、宮廷には十分な財源がなく、この子供たち全員を内親王、親王にするだけの経済的余裕はなかったのです。
そこで、嵯峨天皇は子どもたちに「源」の姓を与え、臣籍降下させることにしました。
子どもたちは、「源」の姓をもらうことで、天皇の皇位継承権を失いますが、朝廷で高官としての道を歩むこととなります。
これが「源氏」の始まりとなりました。
嵯峨天皇のエピソード③|嵯峨天皇はいけばな嵯峨御流の祖
嵯峨天皇は、いけばなの嵯峨御流の開祖と伝わっています。
平安時代の初期、嵯峨天皇は大覚寺の大沢池で、菊ガ島に咲く可憐な菊の花を手折り、殿上の花瓶に挿しました。
その際、嵯峨天皇は、その菊の姿が「天、地、人」三才の美しさを備えていたことに感動し、
「後世花を生くるものは宜しく之を以て範とすべし」
と言ったそうです。
これが、いけばな嵯峨御流の始まりとされています。
嵯峨天皇の自然や草木に対する慈しみの心が、嵯峨御流の礎となり、今現在も受け継がれているのです。
嵯峨天皇のエピソード④|「子子子子子子子子子子子子」を読めるかと小野篁に問た
ある日、内裏に「無悪善」と書いた立て札が立てられました。
読み方がわからなかった嵯峨天皇は、小野篁に読み方を聞きます。
すると、小野篁は、
「さが(悪)なくてよからむ」
と読みました。
つまりは、「嵯峨天皇がいなければいいのに」と読んだわけですね。
これに対して、嵯峨天皇は激怒し、「意味がわかるということはこれを書いたのは小野篁である」と決めつけようとしました。
しかし、小野篁は、
「私に読めぬものはありません」
と、弁明します。
そこで、嵯峨天皇は、
「これが読めるか」
と、「子子子子子子子子子子子子」と書いたものを差し出しました。
すると、小野篁は、
「ねこのここねこ ししのここじし」
とすぐに読んだため、嵯峨天皇の怒りが解けたと言われています。
嵯峨天皇に関するQ&A
嵯峨天皇に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 嵯峨天皇はどんな人?
- 嵯峨天皇の書の特徴は?
- 三筆と三蹟の違いとは?
- 嵯峨天皇と空海の関係は?
嵯峨天皇はどんな人?
嵯峨天皇(さがてんのう) 786年(延暦5年)〜842年(承和9年) 宝算:57歳
父:桓武天皇/母:藤原乙牟漏
皇后:橘喜智子
妃:高津内親王、多治比高子
夫人:藤原諸夏
女御:百済王慶命、百済王貴命、大原浄子
更衣:飯高宅刀自、秋篠高子、山田近子
子:仁明天皇、源信、源常、源弘、源定、源融、正子内親王、有智子内親王、…他多数
嵯峨天皇は、平安時代前期の第52代天皇で、幼い頃から聡敏で博学で、詩文や書道に優れていました。
809年に平城天皇の譲位を受けて即位すると、律令政治の改革や法令、朝廷の儀礼、年中行事などの整備を行いました。
さらに、代表的な能書家として知られていたことから、「三筆」の1人としても数えられています。
また、皇子女の多くに源(みなもと)の姓を与え、臣籍に降下させ、賜姓源氏の例を開きました。
嵯峨天皇の書の特徴は?
嵯峨天皇は、唐代の書家・欧陽詢(おうようじゅん)を愛好し、また、空海に親近したことから、その書風に影響を受けていました。
特徴としては、
- 大きい字と小さい字が混在している
- 曲線のうねりを強めた動的な体勢など、欧陽詢的なものを感じられる
- 行書草書で書かれており、一点一画の最初から最後まで神経の行き届いた緊張感溢れる書
以上のような点が挙げられます。
また、国宝の「光定戒牒(こうじょうかいちょう)」は、嵯峨天皇の書の代表作と言われています。
三筆と三蹟の違いとは?
三筆も三蹟も、平安時代の代表的な能書家、つまり書道に優れた人々を後世に尊重して呼んだ言葉です。
違う点は、その時期にあります。
三筆は、9世紀頃に活躍した3人、嵯峨天皇、空海、橘逸勢を指します。
三蹟は、10世紀頃に活躍した3人、小野道風、藤原佐理、藤原行成を指します。
また、当時からそう呼ばれていたわけではなく、後世の人々が尊崇して呼び始めており、江戸時代あたりになってから定着しました。
嵯峨天皇と空海の関係は?
嵯峨天皇は薬子の変(810)などが起きた関係で、国家が不安定になっていることを憂いていました。
それを解決するために、空海の密教の鎮護国家の修法を信頼し、空海と交流を深めていくことにします。
空海は、唐からの帰国後、嵯峨天皇のお陰で入京することができたこともあり、嵯峨天皇に好意を持っていました。
2人の交流エピソードには以下のようなものがあります。
ある時、空海は自身が滞在していた乙訓寺の庭のみかんのなる木から実を取り、籠に詰めて、自作の詩とともに嵯峨天皇に贈り物をしました。
書や詩を好んでいた嵯峨天皇は、この気遣いに大いに喜んだと言われています。
また、空海は、嵯峨天皇に召し出された折は、屏風や詩書、梵書など、唐から持ち帰ったものの中から、嵯峨天皇が好みそうなものを選んで献上していました。
このように、2人は信頼関係を築いて友人のような関係になり、お互いに最大協力者となったのでした。
まとめ:嵯峨天皇は政務を行うだけではなく、文化面にも後世に大きな影響を与えていた
嵯峨天皇は、天皇としての政務を行いながら、文化面にも尽力していました。三筆として書道を極めたり、いけばなの開祖となったり、桜の花見を始めたりと、その功績は後世にも大きな影響を与えています。
今回の内容をまとめると、
- 嵯峨天皇は文化面においても活躍した天皇だった
- 桜の花見やいけばなの嵯峨御流を始めたのは嵯峨天皇
- 三筆としても活躍しており、後世にも大きな影響を与えている
今現在を生きる私達も、桜の時期になると花見を楽しむ人が多いでしょう。平安時代を生きていた嵯峨天皇も同じように桜を楽しんでいたと思うと、親近感のようなものが湧いてきますね。



