徳川家基の死因は病死?暗殺説も?晩年の姿は?墓所は?その生涯を簡単に解説!
徳川家基(1762(宝暦12)〜1779(安永8))は、江戸幕府第10代将軍・徳川家治の長男です。
将来の第11代将軍として期待されながらも、謎の急死を遂げたことで知られています。
また、2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、奥智哉さんが演じられることでも話題となっています。
そんな徳川家基は、突然死したと言われていますが、なぜ突然亡くなってしまったのでしょうか?
この記事では、徳川家基の死因について簡単に解説していきます。
目次
徳川家基の死因は公式記録では病死
徳川家基の死因は、江戸幕府の公式記録では「急病」とされています。
『続三王外記』には、以下のような内容が記録されています。
徳川家基は、1779年(安永8年)2月21日に鷹狩に出かけた際に、突然体調を崩してしまいます。
そこで、同行していた田沼意次の息のかかった奥医師・池原雲伯が煎じた薬湯を服用しましたが、痛みが治まらず、急遽江戸城西の丸へ帰りました。
驚いた父・徳川家治は医師の手厚い治療を受けさせましたが、その甲斐もなく3日後には急逝してしまいました。
享年18歳でした。
徳川家基には暗殺説や落馬事故説もある
先程もお伝えしたように、徳川家基の死因は公式記録では病死となっています。
しかし、それまでに病気の兆候が全くなく、死の直前まで元気に過ごしていたことから、この急死は不自然であると考えられているのです。
そこで考えられている他の死因は以下の通りです。
- 暗殺説
- 落馬事故説
・暗殺説
徳川家基の死因としてよく考えられるのが、暗殺説です。
この暗殺説では候補者が2人います。
1人目は田沼意次です。
当時、政治を仕切っていたのは田沼意次でした。
しかし、徳川家基は田沼意次の政治にたびたび反対していたのです。
そのため、将来的に徳川家基が将軍になると、田沼意次は権力を失ってしまうかもしれません。
そこで、徳川家基が将軍にならないように、毒を盛ったと考えられているのです。
二人目は一橋治済です。
一橋治済は、次期将軍を徳川家基ではなく、自分の息子である徳川家斉にしたいと考えていました。
そして、結果的に徳川家斉が第11代将軍になったこともあり、一橋家が毒を盛ったのではないかと考えられるようになったのです。
これらの説は、あくまで推測でしかなく、証拠は残っていません。
しかし、徳川家基が亡くなったことにより、得をした人がいるというのは事実です。
・落馬事故説
徳川家基の死因として、さらに別の説を唱えたのが、ドイツの博物学者・シーボルトです。
シーボルトは、
「家基はオランダから輸入したペルシャ馬に乗っていて、落馬事故を起こし、それが原因で亡くなった」
と、記録を残しています。
しかし、この説には疑問点が残るのです。
シーボルトは、徳川家基の死から約半世紀後に渡日しています。
そんな彼がどのようにして死因を知り得たのでしょうか?
幕府の公式記録にも、落馬事故の記述は一切見られません。
このことから、落馬事故説の信憑性はあまり高くないとされています。
徳川家基の年表
【徳川家基の年表】
- 1762年(宝暦12年):0歳
江戸幕府第10代将軍・徳川家治の長男として誕生
- 1766年(明和3年):5歳
元服
- 1769年(明和6年):8歳
江戸幕府将軍の後継者として江戸城西丸に入る
- 1779年(安永8年):18歳
急死
徳川家基は晩年も元気に過ごしていた
徳川家基は、幼少期からとても健康的な人物でした。
亡くなる前の月にも、何度も鷹狩に出かけており、運動不足に陥っていたというようなこともありません。
さらに、亡くなる10日前にも目黒で鷹狩をしていたことが記録されています。
晩年、何かしらの病気を抱えていたのであれば、それほど頻繁に鷹狩に出かけたりはしないでしょう。
このことからも、徳川家基が病気で亡くなったということは考えられにくく、色々な説が出てくる要因となっているのです。
徳川家基の墓所は東京都の寛永寺にある
徳川家基の墓所は、東京都台東区にある寛永寺にあります。
寛永寺は、徳川将軍家の菩提寺であり、他にも多くの歴代将軍が眠っている場所です。
徳川家基の墓所も、そのうちの1つとして存在しており、今でも参拝することができます。
徳川家基は、将軍にこそなれませんでしたが、後に「正二位」という高い位が追贈されました。
このことから、徳川家基の存在が、どれだけ重要視されていたのかが伺えます。
また、徳川家基の代わりに第11代将軍となった徳川家斉は、徳川家基の死を悼み、晩年になっても毎年墓参りを欠かさなかったと言われています。
血縁関係の遠い先代将軍の子供に、ここまで敬意を払うのは異例のことであり、いかに徳川家斉が徳川家基のことを気にしていたのかが伺えますね。
寛永寺
住所:東京都台東区上野桜木1丁目14番11号
開門時間・閉門時間 : 午前9時〜午後5時
徳川家基に関するQ&A
徳川家基に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 歴代徳川将軍の死因と墓所は?
- 徳川家基の母親は誰?
- 大奥とはどういう場所?
歴代徳川将軍の死因と墓所は?
歴代徳川将軍の死因と、それぞれの墓所を一覧でまとめてます。
- 初代将軍:徳川家康 胃がん(享年:75歳) 墓所:日光東照宮
- 2代将軍:徳川秀忠 消化器がん(享年:54歳) 墓所:増上寺
- 3代将軍:徳川家光 脳卒中(享年:48歳) 墓所:日光東照宮(輪王寺)
- 4代将軍:徳川家綱 心筋梗塞(享年:40歳) 墓所:寛永寺
- 5代将軍:徳川綱吉 成人麻疹(享年:64歳) 墓所:寛永寺
- 6代将軍:徳川家宣 インフルエンザ(享年:51歳) 墓所:増上寺
- 7代将軍:徳川家継 急性肺炎(享年:8歳) 墓所:増上寺
- 8代将軍:徳川吉宗 脳卒中(享年:68歳) 墓所:寛永寺
- 9代将軍:徳川家重 脳性麻痺による排尿障害(享年:51歳) 墓所:増上寺
- 10代将軍:徳川家治 脚気による急性心不全(享年:50歳) 墓所:寛永寺
- 11代将軍:徳川家斉 高齢による腹膜炎(享年:69歳) 墓所:寛永寺
- 12代将軍:徳川家慶 暑気あたり(享年:61歳) 墓所:増上寺
- 13代将軍:徳川家定 脚気による急性心不全(享年:35歳) 墓所:寛永寺
- 14代将軍:徳川家茂 脚気による急性心不全(享年:21歳) 墓所:増上寺
- 15代将軍:徳川慶喜 急性肺炎(享年:77歳) 墓所:谷中霊園
徳川家基の母親は誰?
徳川家基の母親は、知保の方です。
父親の第10代将軍・徳川家治は愛妻家であったため、側室を決して持とうとしませんでした。
しかし、正妻である倫子との間には子供ができましたが女の子で、男の子はなかなかできません。
将軍である以上、男児の世継ぎを生んでもらわなくては困ってしまいます。
そこで動いたのが、徳川家治の乳母の松島です。
松島は、老中・田沼意次と相談し、徳川家治に側室を持つことを提案します。
最初は、なかなか了承しなかった徳川家治でしたが、田沼意次も側室を持つということを条件に渋々側室を持つこととなりました。
その側室が、知保の方です。
知保の方との間には、無事に後継者となる男児・徳川家基が誕生しました。
その後、徳川家治は、徳川家基の養育を倫子に任せます。
あくまで側室は側室であり、愛する妻が最優先ということだったのかもしれませんね。
大奥とはどういう場所?
大奥とは、江戸城内にある居住区の中でも、特に将軍の妻子が住んでいる場所のことを指します。
大奥が置かれた最大の目的は、
「江戸幕府将軍の世継ぎとなる、血の繋がった男児をもうけること」
です。
当時、将軍の後継者は、血の繋がった男児でなくてはならないという不文律がありました。
そのため、将軍は一夫多妻が当たり前であり、できれば正室、無理でも側室が男児を生むことを期待されていました。
そのための仕組みが、大勢の女性を住まわせた大奥という存在だったのです。
ちなみに、一番大奥を利用していたとされるのは、第11代将軍・徳川家斉です。
徳川家斉は、なんと16人もの女性との間に、53人の子供を授かったと言われています。
これは、歴代徳川将軍の中で断トツトップの子供の数でした。
まとめ:徳川家基の死因は公式記録では病死だが、暗殺説なども存在する
徳川家基の死因は、江戸幕府の公式記録では病死とされていました。しかし、徳川家基は健康そのものであり、そのような兆候は見られなかったのです。そのため、暗殺されたのではないかとする説も考えられています。
今回の内容をまとめると、
- 徳川家基の死因は、江戸幕府の公式記録では病死
- 徳川家基の死因には、暗殺説や落馬事故説も存在する
- 徳川家基の墓所は、歴代将軍も眠っている東京都の寛永寺にある
徳川家基の死因として暗殺説が浮上するということは、それほどまでに徳川家基が時代を変えうるような重要な人物であったということの証明でもあります。
そのような優秀な人材が若くして亡くなってしまったことは、非常に惜しいことだったのかもしれませんね。



