嵯峨天皇は書道に優れ三筆に数えられていた?書風や特徴、代表作などを簡単に解説!
嵯峨天皇(786(延暦5)〜842(承和9))は、平安時代前期に活躍した日本の第52代天皇です。
漢文詩、文筆に長け、能書家として知られており、空海や橘逸勢らと共に「三筆」の1人として数えられています。
そんな嵯峨天皇は、どのような書を書いていたのでしょうか?
この記事では、嵯峨天皇の書について簡単に解説していきます。
目次
嵯峨天皇の書は三筆の1人に数えられるくらい優れている
嵯峨天皇は「三筆」の1人に数えられています。
三筆とは、平安時代の代表的な能筆家、つまり書道に優れた人々のことであり、
嵯峨天皇
空海
橘逸勢
の3人のことを指します。
平安時代中期までの日本の書法は、王羲之を始めとした中国の書家に習ったものでした。
そのため、三筆の書風も中国に規範を求め、強い影響を受けていました。
しかし、その一方で、三筆は唐風に習いながらも、それぞれ独自の書法を開拓していきます。
それが、後に確立する「和様」への橋渡しの役割を果たすことになるのでした。
嵯峨天皇の書風とその特徴
嵯峨天皇は、唐代の書家・欧陽詢(おうようじゅん)を愛好し、また、空海に親近したことから、その書風に影響を受けていました。
特徴としては、
- 大きい字と小さい字が混在している
- 曲線のうねりを強めた動的な体勢など、欧陽詢的なものを感じられる
- 行書草書で書かれており、一点一画の最初から最後まで神経の行き届いた緊張感溢れる書
以上のような点が挙げられます。
嵯峨天皇の書の代表作は『光定戒牒』
嵯峨天皇の代表作には、国宝の「光定戒牒(こうじょうかいちょう)」が挙げられます。
光定は最澄の弟子の名前であり、戒牒とは受戒した僧尼に交付される身分証のことです。
つまり、最澄の弟子の光定が、延暦寺で菩薩戒を受けた時、朝廷から給せられる通知を嵯峨天皇が執筆したものなのです。
特徴としては、
- 楷書・草書・行書で構成された破体書
- 大きい字と小さい字が混じり、欧陽詢風と空海風が混在し共存している
- 曲線のうねりを強めた動的な体勢は欧陽詢風
- 装飾的かつしなやかで美しい感覚の部分は空海風
- 点画には運筆の変化があり、字形はよく整っている
- 起筆には力を入れないで、収筆に力を入れて書いているため、起筆は細く、収筆は太い
以上の点が挙げられます。
なお、現在は延暦寺で所蔵されています。
三筆とは?選定の参考は『夜鶴庭訓抄』が有力
三筆は平安時代を代表する能筆家を指しますが、何を基準にして選定されたのでしょうか?
明確な選定基準などは記録に残っていませんが、『夜鶴庭訓抄』という書物を参考にしたのではないかとする説が有力視されています。
『夜鶴庭訓抄』とは、平安時代後期の貴族・藤原伊行が娘(建礼門院右京大夫)のために、先祖から受け継いできた口伝を書き与えたとされる書物のことです。
この本の終わり近くに「能書人々」という項目があり、平安朝約400年の間に活躍した能書の名前が列挙されています。
能書の名前は全部で24人挙げられているのですが、この中に、三筆の3人の名前も含まれているのです。
さらに、巻末近くの「内裏額書たる人々」という項目で、平安京の宮城の額や扉、返牒、御表、色紙形、願文を揮毫する仕事を任された人々の名前が列挙されています。
これらは当時の能書たちが、一生涯の誇りを持って筆を振るうような大事な仕事でした。
その中でも、特に重要とされていたのが「内外十二門の額」の揮毫です。
『夜鶴庭訓抄』で、この揮毫者として挙げられていたのが、嵯峨天皇、空海、橘逸勢、小野美材でした。
この挙げられた4人の中では、小野美材だけが年代が異なります。
以上のことから、『夜鶴庭訓抄』の記載を参考にして、三筆を選定したのではないかと考えられているのです。
嵯峨天皇に関するQ&A
嵯峨天皇に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 嵯峨天皇はどんな人?
- 三筆と三蹟の違いとは?
- 嵯峨天皇と空海の関係は?
嵯峨天皇はどんな人?
嵯峨天皇(さがてんのう) 786年(延暦5年)〜842年(承和9年) 宝算:57歳
父:桓武天皇/母:藤原乙牟漏
皇后:橘喜智子
妃:高津内親王、多治比高子
夫人:藤原諸夏
女御:百済王慶命、百済王貴命、大原浄子
更衣:飯高宅刀自、秋篠高子、山田近子
子:仁明天皇、源信、源常、源弘、源定、源融、正子内親王、有智子内親王、…他多数
嵯峨天皇は、平安時代前期の第52代天皇で、幼い頃から聡敏で博学で、詩文や書道に優れていました。
809年に平城天皇の譲位を受けて即位すると、律令政治の改革や法令、朝廷の儀礼、年中行事などの整備を行いました。
さらに、代表的な能書家として知られていたことから、「三筆」の1人としても数えられています。
また、皇子女の多くに源(みなもと)の姓を与え、臣籍に降下させ、賜姓源氏の例を開きました。
三筆と三蹟の違いとは?
三筆も三蹟も、平安時代の代表的な能書家、つまり書道に優れた人々を後世に尊重して呼んだ言葉です。
違う点は、その時期にあります。
三筆は、9世紀頃に活躍した3人、嵯峨天皇、空海、橘逸勢を指します。
三蹟は、10世紀頃に活躍した3人、小野道風、藤原佐理、藤原行成を指します。
また、当時からそう呼ばれていたわけではなく、後世の人々が尊崇して呼び始めており、江戸時代あたりになってから定着しました。
嵯峨天皇と空海の関係は?
嵯峨天皇は薬子の変(810)などが起きた関係で、国家が不安定になっていることを憂いていました。
それを解決するために、空海の密教の鎮護国家の修法を信頼し、空海と交流を深めていくことにします。
空海は、唐からの帰国後、嵯峨天皇のお陰で入京することができたこともあり、嵯峨天皇に好意を持っていました。
2人の交流エピソードには以下のようなものがあります。
ある時、空海は自身が滞在していた乙訓寺の庭のみかんのなる木から実を取り、籠に詰めて、自作の詩とともに嵯峨天皇に贈り物をしました。
書や詩を好んでいた嵯峨天皇は、この気遣いに大いに喜んだと言われています。
また、空海は、嵯峨天皇に召し出された折は、屏風や詩書、梵書など、唐から持ち帰ったものの中から、嵯峨天皇が好みそうなものを選んで献上していました。
このように、2人は信頼関係を築いて友人のような関係になり、お互いに最大協力者となったのでした。
まとめ:嵯峨天皇は書道に優れた人物で、三筆の1人に選ばれている
嵯峨天皇は非常に書道に優れた人物で、「三筆」の1人に選ばれていました。そして、その書は、後に確立する「和様」への橋渡しの役割を果たしたのでした。
今回の内容をまとめると、
- 嵯峨天皇は三筆の1人に数えられるくらい書道に優れた人物
- その特徴は、欧陽詢や空海の影響を受けている書であること
- 代表作は国宝の「光定戒牒」
書の綺麗さというものは、いつの時代に見てもわかるものです。一度、嵯峨天皇の書いた書をしっかりと見てみるのもいいかもしれませんね。


