嵯峨天皇と空海の関係は友人?嵯峨天皇が空海に寺を下賜した?三筆とは?
嵯峨天皇(786(延暦5)〜842(承和9))は、平安時代前期に活躍した日本の第52代天皇です。
漢文詩、文筆に長け、能書家として知られており、空海や橘逸勢らと共に「三筆」の1人として数えられています。
そんな嵯峨天皇と空海はどのような関係だったのでしょうか?
この記事では、嵯峨天皇と空海の関係について簡単に解説していきます。
目次
嵯峨天皇と空海は友人のような関係だった
嵯峨天皇は薬子の変(810)などが起きた関係で、国家が不安定になっていることを憂いていました。
それを解決するために、空海の密教の鎮護国家の修法を信頼し、空海と交流を深めていくことにします。
空海は、唐からの帰国後、嵯峨天皇のお陰で入京することができたこともあり、嵯峨天皇に好意を持っていました。
2人の交流エピソードには以下のようなものがあります。
ある時、空海は自身が滞在していた乙訓寺の庭のみかんのなる木から実を取り、籠に詰めて、自作の詩とともに嵯峨天皇に贈り物をしました。
書や詩を好んでいた嵯峨天皇は、この気遣いに大いに喜んだと言われています。
また、空海は、嵯峨天皇に召し出された折は、屏風や詩書、梵書など、唐から持ち帰ったものの中から、嵯峨天皇が好みそうなものを選んで献上していました。
このように、2人は信頼関係を築いて友人のような関係になり、お互いに最大協力者となったのでした。
嵯峨天皇は空海に一目置いており、東寺を下賜した
嵯峨天皇は、空海の才能に魅了されていたと言われています。
嵯峨天皇の妻は橘喜智子で、この人物は空海と共に唐へ渡った橘逸勢のいとこに当たります。
そして、橘逸勢は空海の達筆を熟知しており、そのことは橘喜智子を通じて嵯峨天皇の知るところとなりました。
こうして、書道に通じていた嵯峨天皇は、早くから空海に一目置いていたようです。
そのせいかどうかははっきりと判明していませんが、嵯峨天皇は823年に空海に東寺を下賜しています。
東寺とは、桓武天皇が鎮護国家の目的のために建てようとした官寺(国立寺院)です。
796年頃から造営が始まったとされていますが、空海に下賜した時点でもまだ建設中でした。
そのため、空海は工事を引き継ぐ形で東寺に入り、境内の中央に密教の教えの中心となる講堂を建立しました。
このような経緯で、東寺は官寺でありながら、真言宗のお寺となったのです。
僧綱(僧尼や諸寺を管理する僧官)でも皇族出身でもない空海に、2つしかない官寺のうちの1つを与えるということは、いかに嵯峨天皇が空海のことを信頼していたのかが伺えますね。
嵯峨天皇と空海は三筆に数えられている。三筆とは?
嵯峨天皇と空海は「三筆」に数えられています。
三筆とは、平安時代の代表的な能筆家、つまり書道に優れた人々のことであり、
嵯峨天皇
空海
橘逸勢
のことを指します。
平安時代中期までの日本の書法は、王羲之を始めとした中国の書家に習ったものでした。
そのため、三筆の書風も中国に規範を求め、強い影響を受けていました。
しかし、その一方で、三筆は唐風に習いながらも、それぞれ独自の書法を開拓していきます。
それが、後に確立する「和様」への橋渡しの役割を果たすことになるのでした。
嵯峨天皇に関するQ&A
嵯峨天皇に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 嵯峨天皇はどんな人?
- 嵯峨天皇の書の特徴は?
- 三筆と三蹟の違いとは?
嵯峨天皇はどんな人?
嵯峨天皇(さがてんのう) 786年(延暦5年)〜842年(承和9年) 宝算:57歳
父:桓武天皇/母:藤原乙牟漏
皇后:橘喜智子
妃:高津内親王、多治比高子
夫人:藤原諸夏
女御:百済王慶命、百済王貴命、大原浄子
更衣:飯高宅刀自、秋篠高子、山田近子
子:仁明天皇、源信、源常、源弘、源定、源融、正子内親王、有智子内親王、…他多数
嵯峨天皇は、平安時代前期の第52代天皇で、幼い頃から聡敏で博学で、詩文や書道に優れていました。
809年に平城天皇の譲位を受けて即位すると、律令政治の改革や法令、朝廷の儀礼、年中行事などの整備を行いました。
さらに、代表的な能書家として知られていたことから、「三筆」の1人としても数えられています。
また、皇子女の多くに源(みなもと)の姓を与え、臣籍に降下させ、賜姓源氏の例を開きました。
嵯峨天皇の書の特徴は?
嵯峨天皇は、唐代の書家・欧陽詢(おうようじゅん)を愛好し、また、空海に親近したことから、その書風に影響を受けていました。
特徴としては、
- 大きい字と小さい字が混在している
- 曲線のうねりを強めた動的な体勢など、欧陽詢的なものを感じられる
- 行書草書で書かれており、一点一画の最初から最後まで神経の行き届いた緊張感溢れる書
以上のような点が挙げられます。
また、国宝の「光定戒牒(こうじょうかいちょう)」は、嵯峨天皇の書の代表作と言われています。
三筆と三蹟の違いとは?
三筆も三蹟も、平安時代の代表的な能書家、つまり書道に優れた人々を後世に尊重して呼んだ言葉です。
違う点は、その時期にあります。
三筆は、9世紀頃に活躍した3人、嵯峨天皇、空海、橘逸勢を指します。
三蹟は、10世紀頃に活躍した3人、小野道風、藤原佐理、藤原行成を指します。
また、当時からそう呼ばれていたわけではなく、後世の人々が尊崇して呼び始めており、江戸時代あたりになってから定着しました。
まとめ:嵯峨天皇と空海は三筆に数えられており、お互いに信頼のできる友人であった
嵯峨天皇は、不安定な国家を安定させるために、空海の密教を頼り、空海も嵯峨天皇に保護されながら、お互いに信頼関係を築いていきました。その関係は、身分を超えて、まるで友人のような関係性にまでなりました。
今回の内容をまとめると、
- 嵯峨天皇と空海は「三筆」に数えられている
- 嵯峨天皇と空海の2人は、お互いに最大協力者であり、友人のような関係だった
- 嵯峨天皇は空海に東寺を下賜している
嵯峨天皇と空海は、書に精通している者同士、どこか惹かれ合うものがあったのでしょう。お互いにいい影響を与え合っていた2人が、三筆として選ばれたのは、必然だったのかもしれませんね。


