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豊臣秀長の妻について簡単に解説!正室は尼さんだった?馴れ初めは?側室は?

豊臣秀長(1540(天文9)〜1591(天正19))は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。

豊臣秀吉の右腕的存在として、その出世を陰ながら支えました。

また、2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、仲野太賀さんが演じられることでも話題となっています。

そんな豊臣秀長の妻にはどのような人がいたのでしょうか?

この記事では、豊臣秀長の妻について簡単に解説していきます。

豊臣秀長の妻は2人

豊臣秀長の妻は2人います。

1人は正室である智雲院。

もう1人は、側室のお藤です。

どちらの妻も、詳細な記録は残っておらず、出自などもはっきりとわかっていません。

しかし、豊臣秀長の正室については、『多聞院日記』や『駒井日記』、『森家先代実録』などに少し名前の記載が見られます。

豊臣秀長と正室・智雲院の馴れ初め

豊臣秀長の妻について詳細ははっきりと判明していませんが、正室・智雲院との馴れ初めにはこんな説があります。

1585年頃、豊臣秀長は兄・豊臣秀吉から大和国を与えられました。

そして、大和国にある法興寺というお寺に、領主として顔を出すことになります。

すると、豊臣秀長は、そこの尼さんであった智雲院に惚れてしまうのです。

これが2人の結婚のきっかけとなりました。

この際、豊臣秀長の歳は45歳くらいであり、とっくに結婚していてもおかしくはない年齢です。

それまでは、兄のサポートで手一杯だったのかもしれません。

しかし、そんな豊臣秀長の心を動かしてしまうくらいですから、智雲院はよほど魅力的な女性だったのでしょう。

豊臣秀長は2人の妻との間に子を3人授かった

豊臣秀長は、2人の妻との間に、全部で3人(一男二女)の子どもを授かりました。

しかし、長男である与一郎は若くして亡くなってしまいます。

さらに、長女・おみやも、豊臣秀長が養子として迎えた豊臣秀保と結婚しましたが、豊臣秀保が僅か17歳で亡くなってしまった後は、どうなったのかが不明なままです。

次女・おきくは、豊臣秀吉の命で、毛利秀元に嫁ぎますが、23歳のときに毛利秀元の子を腹に宿しながら病死してしまいました。

豊臣秀長の正室・智雲院は徳川幕府から知行を与えられていた

豊臣秀長の正室・智雲院は、夫亡き後に、徳川幕府から知行を与えられたという話があります。

場所は、大和国添上郡内の4村で、合計2000石であったという記録が残されています。

これは、豊臣秀長と徳川家康が家族ぐるみで親交を深めていたことに由来するのではないでしょうか。

また、元和年間(1615〜1624)には、これらの村が天領等になっていることから、それまでの間に智雲院は亡くなったと考えられています。

豊臣秀長に関するQ&A

豊臣秀長に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 豊臣秀長はどんな人?
  • 豊臣秀長の死因は?
  • 豊臣秀長と徳川家康の関係は?
  • 豊臣秀長の家臣には誰がいた?

豊臣秀長はどんな人?

【豊臣秀長のプロフィール】

豊臣秀長(とよとみひでなが) 1540年(天文9年)〜1591年(天正19年) 享年:52歳

父:竹阿弥/母:大政所(なか)

正室:智雲院

側室:お藤

子:与一郎、おみや、大善院(おきく)

豊臣秀長は、1540年(天文9年)に、竹阿弥と大政所の子として尾張国にて誕生しました。

若い頃は、地元にて農業に携わっていた豊臣秀長でしたが、兄・豊臣秀吉の勧めに従い、武士の道を歩み始めることになります。

その後は、豊臣秀吉を政務や軍事面で補佐し、豊臣家の天下統一に大きく貢献しました。

子どもは3人授かりましたが、どの子も子を残すことなく亡くなってしまいます。

豊臣秀長の死因は?

豊臣秀長は、1591年(天正19年)の1月22日に、大和国の郡山城にて息を引き取りました。(享年52歳)

死因としては、長年にわたる病気が原因というのが通説ですが、その詳細ははっきりとは判明していません。

1586年頃から、豊臣秀長は頻繁に湯治に訪れるようになり、体調が悪化していたことが伺えます。

また、1589年以降は病状が本格的に悪化しており、1590年の小田原征伐の際には参加できなかったことが記録されているのです。

「医学天正記」という当時の医学書には、豊臣秀長についての記載があり、その症状からすると胃腸系の疾患だったのではないかと推測されています。

豊臣秀長と徳川家康の関係は?

豊臣秀長と徳川家康は、実は遠い親戚関係にありました。

徳川家康の実母・於大の方は、三河国刈屋城主の水野忠政の娘です。

そして、その水野忠政の曽祖父にあたる水野貞守という人物には、水野甚五右衛門為善という弟がいました。

その水野甚五右衛門為善の孫である水野藤次郎為春は尾張国春日井郡迫間村に移住し、男子ができます。

その男子が、豊臣秀長・旭兄妹の実父である竹阿弥こと水野昌盛だったのです。

このように、豊臣秀長と徳川家康は遠い親戚だったのです。

その血のおかげかはわかりませんが、2人は気の合う関係だったらしく、度々協力関係を築いています。

時には、お互いの家族にまで贈り物を送り合うなどしていたくらい、親交を深めていました。

豊臣秀長の家臣には誰がいた?

豊臣秀長の家臣というと、藤堂高虎が有名ですが、その他にも優秀な人物が多く家臣として仕えていました。

その一部をご紹介していきます。

豊臣秀長の「三家老

  • 横浜一庵(筆頭重臣)(5万石)
  • 羽田正親(4万8千石)
  • 小川下野守(3万5千石)

豊臣秀長のその他の家臣

  • 宇多頼忠(1万3千石)
  • 小堀正次(5千石)
  • 吉川平介(7千石)
  • 本多俊政(大和高取1万5千石)
  • 桜井家一(3千石)

また、中井正清や小堀政一などといった築城、造園に長じた人物も多数登用しています。

それらの人々は、豊臣秀長の死後、徳川家康に召し抱えられ栄達し、近世の建築に寄与しました。

まとめ:豊臣秀長の妻は2人おり、正室・智雲院とは晩婚だった

豊臣秀長は、生涯で2人の妻を迎えています。正室・智雲院とは45歳の頃に結婚しており、当時としては割と晩婚であったことが伺えます。

今回の内容をまとめると、

  • 豊臣秀長の妻は2人
  • 豊臣秀長は、正室・智雲院とは晩婚だった
  • 豊臣秀長は、子どもを全部で3人授かった

豊臣秀長の亡き後、智雲院は徳川幕府から知行を与えられていました。それは、豊臣陣営が最終的に敵になったにも関わらず、豊臣秀長のことを徳川家康が信頼し続けていたという証拠なのではないかと思わずにはいられません。

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