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豊臣秀長の死因は病死?暗殺説も?晩年は豊臣秀吉と不仲だった?死後の影響は?

豊臣秀長(1540(天文9)〜1591(天正19))は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。

豊臣秀吉の右腕的存在として、その出世を陰ながら支えました。

また、2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、仲野太賀さんが演じられることでも話題となっています。

そんな豊臣秀長はどのようにして亡くなったのでしょうか?

この記事では、豊臣秀長の死因について簡単に解説していきます。

豊臣秀長の死因は病死?

豊臣秀長は、1591年(天正19年)の1月22日に、大和国の郡山城にて息を引き取りました。(享年52歳)

死因としては、長年にわたる病気が原因というのが通説ですが、その詳細ははっきりとは判明していません。

1586年頃から、豊臣秀長は頻繁に湯治に訪れるようになり、体調が悪化していたことが伺えます。

また、1589年以降は病状が本格的に悪化しており、1590年の小田原征伐の際には参加できなかったことが記録されているのです。

『医学天正記』という当時の医学書には、豊臣秀長についての記載があり、その症状からすると胃腸系の疾患だったのではないかと推測されています。

豊臣秀長の死因には暗殺説もある

豊臣秀長の死因は、病死説が有力とされていますが、実は他にも候補があります。

  • 毒殺による暗殺説
  • 豊臣秀吉による粛清説

【毒殺による暗殺説】

豊臣秀長の亡くなる前の記述がある『医学天正記』を見てみると、その症状はヒ素中毒と一致する可能性が高いのです。

ヒ素は、当時毒殺の手段として知られており、政敵の排除のために使用された例もあります。

それでは、なぜ豊臣秀長は暗殺されてしまったのでしょうか?

その理由として考えられるのは以下の通りです。

  • 豊臣秀長の政治的影響力を他の大名が恐れたため
  • 豊臣政権打倒の布石として徳川家康が暗殺を企てた
  • 豊臣政権内部での権力争いのため

いずれにせよ、豊臣秀長が優秀すぎるが故に狙われてしまったということですね。

【豊臣秀吉による粛清説】

誰かわからない人物に暗殺されたとする説とは別に、実は兄・豊臣秀吉に粛清されたのではないかとする説も存在します。

理由は以下の通りです。

  • 豊臣秀吉が、権力を自分に集中させるために有能な豊臣秀長を排除しておきたかったから
  • 豊臣秀吉の政策に豊臣秀長が反対していたため
  • 豊臣秀長には当時嫡子がおらず、豊臣秀長やその子孫が後継者となる可能性が高くなってしまったから

やはり、豊臣秀吉が単独で権力を持つには、邪魔な存在になってしまっていたということなでしょう。

しかし、この説には反論も存在しています。

  • 豊臣秀吉は家族を大切にする人物として知られていることから、弟を殺害するとは考えにくい
  • 豊臣秀長は、豊臣政権にとって不可欠な存在であり、豊臣秀吉にとっても大きな損失となると考えられる
  • 豊臣秀吉が豊臣秀長を粛清したとする直接的な記録は残っていない

暗殺説にしろ、粛清説にしろ、豊臣秀長が優秀すぎる人物で、様々な人から狙われる可能性がある立場であったということは伺えますね。

豊臣秀長は晩年、兄・豊臣秀吉と不仲になっていた

豊臣秀長は、豊臣秀吉を政務や軍事面で補佐し、豊臣家の天下統一に大きく貢献してきました。

しかし、そんな表裏一体の2人も、晩年実は不仲になっていたという話があるのです。

きっかけは2つの出来事でした。

1つ目は、1587年の九州征伐の際のことです。

豊臣秀長は、日向方面の総大将として参戦し功績を上げました。

しかし、その際に、九州征伐に参加していた他の大名に割高な兵糧を売りつけようとしたのです。

これを見かねた豊臣秀吉は、豊臣秀長のことを注意し止めています。

2つ目は、1588年に起きた事件です。

この際、紀伊の雑賀において材木の管理を任されていた代官・吉川平介が、豊臣秀長に命じられた熊野の材木約2万本の代金を着服してしまいました。

これを知った豊臣秀吉は激怒し、吉川平介を処刑します。

そして、これに関して豊臣秀長も責任を問われてしまうのです。

以上、2つの出来事がきっかけで豊臣秀長と豊臣秀吉の仲は、突然亀裂が入ってしまいます。

これ以降、豊臣秀長は、年頭の挨拶など対面することを豊臣秀吉から拒否されるようになってしまい、豊臣秀長は亡くなるまで兄と顔を合わせることがありませんでした。

豊臣秀長の死後の影響

「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」

これは、豊臣秀長が大友宗麟をもてなした際に放った言葉です。

簡単に言うと、

「内緒の話は宗易(千利休)に、公の政治の話は私に言ってね」となります。

それほどまでに、豊臣秀長は、豊臣政権下において大事な役割を任されていました。

その政治の中核をなし、全てのバランスを取っていたと言っても過言ではない豊臣秀長が亡くなると、豊臣秀吉はやりたい放題を始めてしまいます。

豊臣秀長の死後、豊臣秀吉が行った主な出来事は以下の通りです。

  • 千利休切腹事件:不仲になった千利休に言いがかりをつけて切腹させた
  • 文禄・慶長の役:戦況と日本軍の惨状を危惧した石田三成が中止を提言するも、聞く耳持たずに朝鮮国へと侵攻した
  • 豊臣秀次切腹事件:関白だった豊臣秀次を切腹させ、一族郎党を処刑した。そして、自身の3歳の息子・豊臣秀頼に家督を継がせた
  • 日本二十六聖人:豊臣秀長の死後、キリシタン禁制令をより強化した。さらに、キリシタン26人を市中引き回した後に処刑。これも石田三成が止めるも聞き入れなかった

これらの出来事の中で、豊臣政権に最もダメージを与えたのが、豊臣秀次切腹事件です。

豊臣秀吉は、なかなか後継者ができなかったため、実姉の子を養子に迎え、関白職を譲っていました。

しかし、その後豊臣秀吉に待望の男の子が生まれてしまい、その子に後を継がせたくなったので、豊臣秀次に言いがかりをつけ切腹させたのです。

後継者として成長していた豊臣秀次を殺し、まだまだ幼い豊臣秀頼に後を継がせたことで、豊臣秀吉の死後は徳川家康に政権を乗っ取られていってしまいます。

豊臣秀長が生きていれば、このようなことは絶対にさせなかったでしょう。

豊臣政権において、豊臣秀長の死というものが、いかに大きな出来事であったのかが伺えます。

豊臣秀長に関するQ&A

豊臣秀長に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 豊臣秀長はどんな人?
  • 豊臣秀長と徳川家康の関係は?
  • 豊臣秀長の家臣には誰がいた?

豊臣秀長はどんな人?

【豊臣秀長のプロフィール】

豊臣秀長(とよとみひでなが) 1540年(天文9年)〜1591年(天正19年) 享年:52歳

父:竹阿弥/母:大政所(なか)

正室:智雲院

側室:お藤

子:与一郎、おみや、大善院(おきく)

豊臣秀長は、1540年(天文9年)に、竹阿弥と大政所の子として尾張国にて誕生しました。

若い頃は、地元にて農業に携わっていた豊臣秀長でしたが、兄・豊臣秀吉の勧めに従い、武士の道を歩み始めることになります。

その後は、豊臣秀吉を政務や軍事面で補佐し、豊臣家の天下統一に大きく貢献しました。

子どもは3人授かりましたが、どの子も子を残すことなく亡くなってしまいます。

豊臣秀長と徳川家康の関係は?

豊臣秀長と徳川家康は、実は遠い親戚関係にありました。

徳川家康の実母・於大の方は、三河国刈屋城主の水野忠政の娘です。

そして、その水野忠政の曽祖父にあたる水野貞守という人物には、水野甚五右衛門為善という弟がいました。

その水野甚五右衛門為善の孫である水野藤次郎為春は尾張国春日井郡迫間村に移住し、男子ができます。

その男子が、豊臣秀長・旭兄妹の実父である竹阿弥こと水野昌盛だったのです。

このように、豊臣秀長と徳川家康は遠い親戚だったのです。

その血のおかげかはわかりませんが、2人は気の合う関係だったらしく、度々協力関係を築いています。

時には、お互いの家族にまで贈り物を送り合うなどしていたくらい、親交を深めていました。

豊臣秀長の家臣には誰がいた?

豊臣秀長の家臣というと、藤堂高虎が有名ですが、その他にも優秀な人物が多く家臣として仕えていました。

その一部をご紹介していきます。

豊臣秀長の「三家老

  • 横浜一庵(筆頭重臣)(5万石)
  • 羽田正親(4万8千石)
  • 小川下野守(3万5千石)

豊臣秀長のその他の家臣

  • 宇多頼忠(1万3千石)
  • 小堀正次(5千石)
  • 吉川平介(7千石)
  • 本多俊政(大和高取1万5千石)
  • 桜井家一(3千石)

また、中井正清や小堀政一などといった築城、造園に長じた人物も多数登用しています。

それらの人々は、豊臣秀長の死後、徳川家康に召し抱えられ栄達し、近世の建築に寄与しました。

まとめ:豊臣秀長の死因は病死が有力とされているが、暗殺説などもある

豊臣秀長の死因は、長年にわたる病気という説が有力です。しかし、その優秀さ故に、他大名からの暗殺説や兄・豊臣秀吉からの粛清説なども存在しました。

今回の内容をまとめると、

  • 豊臣秀長の死因は病死が有力
  • 豊臣秀長の死因は、他大名からの暗殺説や兄・豊臣秀吉からの粛清説なども存在する
  • 豊臣秀長が死んだことは、豊臣政権にとっては大打撃だった

豊臣秀長が亡くなったことは、豊臣政権に大きな影響をもたらしました。豊臣秀長がもう少し長生きしていれば、豊臣政権がもっと長く続いた未来もあったかもしれませんね。

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