前田利家の妻・まつを簡単に解説!多くの子供を産んだ?前田家を支え続けた?
前田利家(1539(天文7)〜1599(慶長4))は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。
「加賀百万石の祖」とも呼ばれ、前田家繁栄の礎を築き上げました。
また、2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、大東駿介さんが演じられることでも話題となっています。
そんな前田利家には、まつという妻がいました。
まつは、どのような女性だったのでしょうか?
この記事では、前田利家の妻・まつについて簡単に解説していきます。
目次
前田利家と妻・まつの相関図。2人は従兄妹の関係?
【前田利家とまつの相関図】
前田利家とまつは夫婦です。。
2人の出会いは、幼少期の頃。
まつは、幼少期に自分の父親が亡くなって以来、前田利家の父親である利昌に養育されていました。
なぜ、利昌に養育されることになったかというと、前田利家の母・長齢院が、まつの母・竹野氏と姉妹だったからです。
つまり、前田利家とまつは従兄妹だったというわけです。
この経緯があり、2人は同じ屋根の下で暮らすことになります。
一緒に暮らしているうちに自然とお互いに惹かれ合っていったのでしょう。
2人は当時としては珍しい恋愛結婚をします。
ちなみに、結婚当時、前田利家は21歳、まつはなんと12歳という年の差婚でした。
前田利家の妻・まつは戦国時代で一番子供を産んだ
まつは前田利家との間に、2男9女の11人もの子供をもうけました。
実はこの11人という数は、戦国時代としては伊達晴宗の正室・久保姫と並んで最も多い数だと言われています。
それほど、前田利家とまつが仲が良かったという証でもあるでしょう。
前田利家の妻・まつは戦の際に前田利家を何度も助けた
まつは、前田利家が戦をする度に、何度もその手助けをしています。
ここでは、そのいくつかのエピソードをご紹介していきます。
・末森城の攻防戦
末森城の攻防戦は、1584年(天正12年)に起こった前田利家と佐々成政との戦いです。
この戦いは「小牧・長久手の戦い」と連動して起こりました。
徳川軍に属していた佐々成政が1万5千の大軍を率いて、前田領の重要拠点である末森城に攻め込んできたのです。
この大軍に対して、城内は前田利家の重臣・奥村永福ら500人足らずのみ。
30km先の金沢城にてこの報せを受けた前田利家は、末森城を救うために出陣しようとします。
しかし、そこに豊臣秀吉の使者が現れ、
「金沢城を一歩も出てはならぬ。城の守りに専念せよ」
と豊臣秀吉からの命令が伝えられます。
これにより、前田利家は出陣することを躊躇ってしまうのです。
しかし、ここで登場するのがまつです。
まつは、前田利家が蓄えてきた金銀の袋を持ちながらこう言います。
「日頃から兵を養うように言っているのに、殿は蓄財ばかり!それでは、いっそ金銀に槍を持たせたらいかがか!」
前田利家はかなりの倹約家だったのですが、まつは皮肉たっぷりの言葉をわざと発したのです。
これを聞いた前田利家は、思わず刀を抜こうとするほどまでに激怒しましたが、まつに罵られたその勢いのまま、前田利家は末森城へと向かっていったのです。
現地に着いた前田利家は、早速領民から佐々軍の布陣状況を聞き出すと、夜中、兵の薄い海岸線沿いを進み、敵の背後に回り込むことに成功。
そして、夜が明けると同時に、一気に奇襲をかけ、形勢逆転するのです。
不意をつかれた佐々軍は、敗走していきました。
数での不利を、地の利を活かして勝利をもぎ取ったのです。
この勝利によって、末森城は落城を免れ、豊臣秀吉との関係もより密なものになり、のちの「加賀百万石」を不動のものとしました。
もし、まつの言葉がなければ、この前田利家の勝利もなかったかもしれません。
・賤ケ岳の戦い
賤ケ岳の戦いは、1583年(天正11年)に起きた豊臣秀吉と柴田勝家の戦いです。
この戦は、前田利家の人生最大の岐路であったと言われています。
織田信長の死後、豊臣秀吉と柴田勝家の対立は激しくなっていきました。
当時は、柴田勝家が北陸方面の軍司令官を務めており、前田利家はその与力であったため、軍事的には柴田勝家の指揮下にありました。
しかし、豊臣秀吉ともかねてより家族ぐるみで付き合いがあったため、前田利家は両者の間で板挟みのような状態となっていたのです。
最終的には柴田勝家の味方として賤ケ岳の戦いに参戦しましたが、豊臣軍の有利を見て、戦うことなく越前に戻ります。
そして、その結果、豊臣軍は勝利します。
この際、動いたのがまつです。
まつは、一度は柴田勝家側についた前田利家の立場を守ろうと、豊臣秀吉の正室であるねねを通じて、赦免を働きかけました。
これが実を結んだのかどうかはわかりませんが、前田利家と豊臣秀吉の和睦が成立するだけではなく、前田利家は加賀2郡を加増されています。
この賤ケ岳の戦い以外でも、前田利家の立場が怪しくなった際には、まつがねねを通じて豊臣秀吉に働きかけたというエピソードが残っており、まつとねねが昵懇の仲であったことは、前田利家の人生において大きな意味を持っていたと考えられています。
前田利家の死後もまつは人質になってまで前田家を支え続けた
まつはその生涯、前田利家のため、前田家のために尽くします。
前田利家の死後、まつは徳川家にかけられた謀反の疑いを解くために、自ら人質となって江戸に下り、14年もの間江戸で暮らしたのです。
これは、江戸時代における諸大名妻子江戸居住制の第一号であったと言われています。
その後、まつが再び加賀の地に戻ったのは、死を迎える3年前でした。
つまり、まつは本当にその生涯を前田家のために捧げたのです。
前田利家に関するQ&A
前田利家に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 前田利家はどんな人?
- 前田利家に側室はいた?
- 前田利家の死因は?
前田利家はどんな人?
前田利家(まえだとしいえ)
1539年(天文7年)〜1599年(慶長4年) 享年:62歳
父:足利利昌/母:長齢院
正室:まつ
側室:寿福院、隆興院、金晴院、明運院、逞正院
子:幸、利長、簫、摩阿姫、豪姫、与免、利政、千世、知好、利常、利孝、利貞、他複数名…
前田利家は、1539年(天文7年)に尾張国(現在の愛知県)で、前田利昌と長齢院の四男として生まれました。
若い頃から、その武勇と才能を見込まれ、織田信長の小姓として仕えることになります。
特に槍術に長けており、性格は血気盛んで喧嘩早い一面がありましたが、次第に織田信長の信頼を得て重要な地位を任されるようになっていくのです。
姉川の戦いや春日井堤の戦いで活躍し、これらの功績により「槍の又佐」と称され、戦国武将として名を高めていきました。
織田信長の死後は、豊臣秀吉に仕え、能登、越中、加賀の3国を治める大名となります。
特に、加賀百万石の初代大名として、その後の加賀藩の基盤を築き上げました。
豊臣秀吉からの信頼も厚く、朝鮮出兵では側近として仕え、その後五大老の一人として豊臣家を支える立場にも選ばれました。
最後は、大阪の自邸で病に倒れ、62歳で人生を閉じました。
前田利家に側室はいた?
前田利家の側室:寿福院、隆興院、金晴院、明運院、逞正院
おしどり夫婦で有名な前田利家とまつですが、実は前田利家には側室が5人います。
まつは、前田利家が側室を設けることに一切不満を漏らさなかったそうです。
ちなみに、側室との間には7人の子供が生まれています。
前田利家の死因は?
前田利家の死因は、内臓系の癌であったと言われており、特に消化器系の癌であった可能性が高いと考えられています。
というのも、前田利家は持病で腹痛を患っており、長年それに苦しめられていました。
この腹痛は胆石による発作だったのではないかと考えられており、そこから消化器系の癌だったのではないかと考えられているわけです。
1599年4月27日に、大阪の自邸で亡くなります。
享年62歳でした。
まとめ:前田利家の妻・まつは生涯前田家を献身的に支え続けた人物だった
前田利家の妻・まつは、前田利家の従兄妹でした。幼少期から付き合いがあり、そのまま恋愛結婚した後は、前田利家と前田家を献身的に生涯支え続けました。
今回の内容をまとめると、
- 前田利家とまつは従兄妹の関係
- 前田利家とまつは、当時としては珍しく恋愛結婚をし、おしどり夫婦となる
- 前田利家のピンチをまつが何度も救ったエピソードも数多くある
- 前田利家の死後も、まつは前田家存続のためにその身を捧げた
前田利家は、まつと結婚してすぐの頃、織田信長の同朋衆である拾阿弥を斬ってしまい織田氏の家来を解雇されてしまったことがあります。なぜ拾阿弥を斬ったかというと、まつからもらった笄(こうがい)という髪結いの道具を、盗まれたり侮辱されたりしたことに耐えられなかったからだそう。このことからも、いかに前田利家がまつのことを大事に思っていたのかが伺えますね。


