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前田利家と徳川家康の関係は?一触即発のライバルだった?前田利家は徳川家康を殺そうとした?

前田利家(1539(天文7)〜1599(慶長4))は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。

「加賀百万石の祖」とも呼ばれ、前田家繁栄の礎を築き上げました。

また、2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、大東駿介さんが演じられることでも話題となっています。

そんな前田利家は徳川家康とどのような関係だったのでしょうか?

この記事では、前田利家と徳川家康の関係について簡単に解説していきます。

前田利家と徳川家康はずっと同僚だった

前田利家と徳川家康が、初めて会ったのは桶狭間の戦い(1560)です。

その際は、前田利家は織田軍、徳川家康は今川軍に属していました。

この戦いで、織田軍は勝利し、徳川家康は織田信長と同盟を組むこととなります。

こうして、2人は度々共闘するようになり、織田信長の死後は豊臣秀吉の家臣として同僚となるのです。

豊臣政権下では、二台巨頭として豊臣秀吉を支え続けました。

徳川家康は外様の最大勢力を誇っていましたが、前田利家は武将たちからの信頼が抜群に厚かったのです。

そのため、2人はお互いにお互いを牽制し合いながら、豊臣家を支えていました。

前田利家と徳川家康が危うく戦うことになっていたかもしれない「水騒動」

1591年、豊臣秀吉は朝鮮出兵をするために、肥前国(現在の佐賀県)に日本全土から主要戦国武将・160家を集め、九州名護屋に町を含めた大規模な城を築くのです。

その中心となる肥前名護屋城の周りには、招集された戦国武将たちの陣が築かれていきました。

その中で、前田家と徳川家の陣はほど近く、水場を共有していたのです。

お互いの軍は、大勢の兵を抱えており、水や食料の問題を抱えていました。

そのため、この水場を巡って、使番の者達で小競り合いが起こります。

戦場で水場や食料を求めて小競り合いが起こるのはよくあることなのですが、これはただの小競り合いにとどまりませんでした。

前田家と徳川家がライバル関係にあったこともあり、互いに引くに引けなくなってしまったのでしょう。

小競り合いから発展し、ついには千を超える兵達がもみ合う大騒動になり、一触即発の雰囲気となりました。

さらには、この様子が他の武将たちにも伝わり「どちらかに味方するか」と、より大事になっていきます。

結果として、これは前田利家と徳川家康が騒動を治めるべく奔走したため、それ以上の大事にはならず、2人は一戦交えることはありませんでした。

しかし、これにより、前田家に味方する武将が多くいることが判明したのです。

石高と官位では徳川家康に劣るが、人望においては前田利家が勝るということが世に広まるきっかけとなりました。

前田利家は最期に徳川家康を殺そうとした

豊臣秀吉の死後、2人は五大老の一員として豊臣家を支えていく立場でした。

しかし、徳川家康は徐々に天下を取ろうと動き始めますが、前田利家という存在がいるため、徳川家康は大きくは動こうとはしませんでした。

そんな中、前田利家が豊臣秀吉死後の多忙による過労で、持病が悪化し、余命いくばくかとなってしまいます。

前田利家が亡くなってしまうと、徳川家康が暴走してしまうかもしれません。

そのことを危惧した前田利家は、最期に徳川家康と親睦を深めようとします。

自分がもう先が長くない以上、この不和を解消する他に道はないと考えたのでしょう。

自ら、徳川家康のいる伏見城へと単身乗り込み、これからも豊臣家を盛り立てていくことを約束しました。

その後の徳川家康は、怪しい動きを見せることもなくなります。

そして、いよいよ前田利家が床に伏せるようになると、今度は徳川家康が前田利家の屋敷を訪ねてくるのです。

前田利家は「豊臣家と自身の息子をよろしく頼む」と徳川家康に言い含めて、最期の二大老筆頭としての話を終えました。

この際、前田利家は自身の布団の下に太刀を仕込んでいたと言われています。

望まぬ答えが返ってきていたら、そのまま徳川家康を殺そうとしていたのかもしれません。

もうほとんど動けない状態だったはずなのに、そんなことをしようとしていたなんて、前田利家の胆力には驚かされます。

前田利家の死後、徳川家康は前田家を滅ぼそうとした

前田利家の死後、徳川家康は前田利家との約束を反故にし、天下取りに向けて再び動き始めます。

その途中、前田家に謀反の疑いがあるとして、加賀征伐を計画するのです。

しかし、前田利家の妻・まつは謀反の疑いを解くために、自ら人質となって江戸に下り、14年もの間江戸で暮らしたのです。

これは、江戸時代における諸大名妻子江戸居住制の第一号であったと言われています。

まつのおかげで、前田家は滅亡することなく、加賀藩は119万石まで加増され、幕末まで続くこととなったのです。

前田利家に関するQ&A

前田利家に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 前田利家はどんな人?
  • 前田利家に側室はいた?
  • 前田利家の死因は?

前田利家はどんな人?

前田利家(まえだとしいえ)

1539年(天文7年)〜1599年(慶長4年)  享年:62歳

父:足利利昌/母:長齢院

正室:まつ

側室:寿福院、隆興院、金晴院、明運院、逞正院

子:幸、利長、簫、摩阿姫、豪姫、与免、利政、千世、知好、利常、利孝、利貞、他複数名…

前田利家は、1539年(天文7年)に尾張国(現在の愛知県)で、前田利昌と長齢院の四男として生まれました。

若い頃から、その武勇と才能を見込まれ、織田信長の小姓として仕えることになります。

特に槍術に長けており、性格は血気盛んで喧嘩早い一面がありましたが、次第に織田信長の信頼を得て重要な地位を任されるようになっていくのです。

姉川の戦いや春日井堤の戦いで活躍し、これらの功績により「槍の又佐」と称され、戦国武将として名を高めていきました。

織田信長の死後は、豊臣秀吉に仕え、能登、越中、加賀の3国を治める大名となります。

特に、加賀百万石の初代大名として、その後の加賀藩の基盤を築き上げました。

豊臣秀吉からの信頼も厚く、朝鮮出兵では側近として仕え、その後五大老の一人として豊臣家を支える立場にも選ばれました。

最後は、大阪の自邸で病に倒れ、62歳で人生を閉じました。

前田利家に側室はいた?

前田利家の側室:寿福院、隆興院、金晴院、明運院、逞正院

おしどり夫婦で有名な前田利家とまつですが、実は前田利家には側室が5人います。

まつは、前田利家が側室を設けることに一切不満を漏らさなかったそうです。

ちなみに、側室との間には7人の子供が生まれています。

前田利家の死因は?

前田利家の死因は、内臓系の癌であったと言われており、特に消化器系の癌であった可能性が高いと考えられています。

というのも、前田利家は持病で腹痛を患っており、長年それに苦しめられていました。

この腹痛は胆石による発作だったのではないかと考えられており、そこから消化器系の癌だったのではないかと考えられているわけです。

1599年4月27日に、大阪の自邸で亡くなります。

享年62歳でした。

まとめ:前田利家と徳川家康はお互いに牽制をし合っていたライバルのような関係だった

前田利家と徳川家康は、豊臣秀吉の家臣でした。同僚である彼らは、お互いに牽制し合いながら、豊臣家を支え続けました。

今回の内容をまとめると、

  • 前田利家と徳川家康は豊臣秀吉の家臣だった
  • 前田利家と徳川家康は、二台巨頭として豊臣家を支え続けた
  • 前田利家は人望を持って、徳川家康の暴走を止め続けた

前田利家が亡くなった途端に、徳川家康が一気に天下を取りにいくわけですが、このことからも、いかに前田利家が徳川家康のブレーキになっていたのかが伺えますね。

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