喜多川歌麿の浮世絵で有名な作品を解説!特徴は?才能を見出したのは蔦屋重三郎?
喜多川歌麿(1753?(宝暦3?)〜1806(文化3))は、江戸時代に活躍した浮世絵師です。
国内ではもとより、海外でも評価の高い数々の作品を生み出しました。
また、2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、染谷将太さんが演じられることでも話題となっています。
そんな喜多川歌麿の浮世絵にはどのようなものがあるのでしょうか?
この記事では、喜多川歌麿の有名な作品について簡単に解説していきます。
目次
喜多川歌麿の有名な浮世絵の代表作
美人画で有名な喜多川歌麿ですが、それを描き始める前には役者絵や風景画なども描いていました。
喜多川歌麿が最初に評価されたのは、美人画ではなく動植物の精緻な絵だったのです。
その際に描かれていた代表作が以下の通りです。
- 『画本虫撰』
- 『百千鳥狂歌合』
- 『潮干のつと』
そして、この喜多川歌麿の徹底した観察眼は、次第に女性美を追求することに使われていきます。
蔦屋重三郎にその才を見出されると、喜多川歌麿は錦絵、特に美人画に力を入れ始めるようになりました。
その際に描かれていた代表作が以下の通りです。
- 「姿見七人化粧」びん直し
- 江戸三美人
- 「婦女人相十品」ポッピンを吹く娘
- 難波屋おきた
- 高島おひさ
- 富本豊雛
- 『高名美人六家撰』
- 『六玉川』
- 婦人手業操鏡
- 鮑取り
- 女職蚕手業草
以上のように、喜多川歌麿は、その生涯絵筆を折ることなく、ひたすらに作品を残し続けたのです。
喜多川歌麿の浮世絵の特徴は美人画?
喜多川歌麿の浮世絵で、特徴的だと言えることは、繊細で品のある描線です。
特に美人画においては、それが遺憾なく発揮されており、女性の様々な仕草や表情の美しさが華麗に表現されています。
美人画とは、そもそも女性の容姿だけではなく、内面の美しさも表現した絵画のことを指すのですが、その表現力が喜多川歌麿はずば抜けていたのでしょう。
また、従来の美人画は、いずれも全身を描くものが多かったのですが、喜多川歌麿は役者絵などに用いられていた大首絵の手法を取り入れ、上半身アップで顔に目が行く美人大首絵を考案します。
さらに、単に構図を変えるだけではなく、髪の毛の一本一本を丁寧に描き、地色の背景に雲母摺を用いた他にも、空摺や無地の地潰しなどの技法を駆使して、作品としての美しさを追求していきました。
これが浮世絵の支持層であった江戸町民に大受けして、喜多川歌麿は一世を風靡するほどの浮世絵師となったのです。
喜多川歌麿は蔦屋重三郎に才能を見出され出世した
喜多川歌麿が浮世絵師として一世を風靡するまでになったのは、蔦屋重三郎の存在があります。
蔦屋重三郎とは1781年(天明元年)に出会います。
そこで、蔦屋重三郎は喜多川歌麿の才能を見出し、様々な作品で喜多川歌麿を起用するようになりました。
一時期は、自宅に居候させて抱え込んでいたという記録が残るほど、蔦屋重三郎は喜多川歌麿の才能に惚れ込んでいたようです。
また、喜多川歌麿の女性を描く才能に気づき、美人画に専念させたのも蔦屋重三郎だったと言われています。
喜多川歌麿の主要作品の大部分は蔦屋重三郎が刊行しました。
このように、喜多川歌麿が出世したのは、蔦屋重三郎の存在が大きかったと言えるでしょう。
喜多川歌麿の浮世絵は海外で高く評価された
江戸時代、浮世絵はとても安価で、気軽に買える庶民の娯楽品で、肉筆画はともかく、木版画は芸術品として評価されることはほとんどありませんでした。
喜多川歌麿の作品も例に漏れず、当初は芸術品としての評価はあまりされていなかったようです。
さらに、明治時代になると、浮世絵は芸術品としてはおろか、娯楽品としての価値すらも失われていってしまいます。
こうなってしまっては、普通であれば作品は残らなかったかもしれません。
しかし、江戸で廃れていく一方で、19世紀後半のパリではジャポニズムブームが沸き起こっていました。
陶磁器とともに浮世絵にも人気の火がつき、優れた浮世絵作品は海外のコレクターによって、次々に回収されていったのです。
喜多川歌麿の作品たちも、その多くが海外へと流出していきました。
今では、喜多川歌麿の作品は、ロンドンの大英博物館、パリのギメ美術館、ボストン美術館など、欧米の美術館や博物館に所蔵されています。
以上のことから、喜多川歌麿の作品は、日本国内よりも、海外で高く評価されていたということが伺えますね。
喜多川歌麿に関するQ&A
喜多川歌麿に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 喜多川歌麿はどんな人?
- 喜多川歌麿は晩年処罰された?
- 喜多川歌麿の死因は?
喜多川歌麿はどんな人?
喜多川歌麿(きたがわうたまろ) 1753?年(宝暦3?年)〜1806年(文化3年) 享年:54歳
喜多川歌麿は、葛飾北斎、歌川広重、東洲斎写楽などと並び、世界的に知られている浮世絵師です。
しかし、その出生に関しては謎に包まれており、どこで生まれたか、両親は誰なのか、生年はいつなのかなど、全く記録がありません。
没年は判明しているため、年齢から数えて、生年は1753年であろうとする説が有力です。
謎に包まれている喜多川歌麿ですが、蔦屋重三郎に見出されて以降は、黄表紙の挿絵や錦絵を手掛けていくようになります。
寛政期に入ると、評判の町娘や遊里の女性たちを魅力的に描き、浮世絵美人画の第一人者としてその名を知らしめていきました。
寛政の改革にも負けず、常に新しい表現手段を模索し続けていましたが、1804年には幕府から処罰を受け、その2年後には息を引き取りました。
喜多川歌麿の作品は、本人が亡くなって以降も、日本に留まらず海外においても高く評価され続けています。
喜多川歌麿は晩年処罰された?
喜多川歌麿は、幕府の様々な規制の目をかいくぐり活動を続けていましたが、1804年(文化元年)に発表した『絵本太閤記』関連の錦絵によって処罰を受けることとなってしまいます。
【寛政の改革による規制】
1790年〜:出版統制令
- 時事問題を「一枚絵」にして素早く刊行することを禁止
- 好色本は絶版
- 新刊本の奥書には、作者と版元の実名を必ず記載
- 黄表紙や洒落本の作者や版元を弾圧
- 華やかな構図やなまめかしい女性の姿を描いた美人画を規制
一説には、その罰は3日間の入牢と手鎖50日(鉄製の手錠をかけた状態で自宅に50日間謹慎)だったと言われており、喜多川歌麿はそのまま衰弱していき、2年後に息を引き取りました。
喜多川歌麿の死因は?
喜多川歌麿の死因は、病死だったと言われています。
しかし、何の病気であったかの記録は残っていないため、詳細は不明です。
晩年、幕府から処罰され、手鎖50日を受けた喜多川歌麿は、心身ともに衰弱しており、その後病気になり、回復の見込みがなくなったと言われています。
版元たちは、喜多川歌麿が先が長くないと知ると、喜多川歌麿と最後の仕事をするために、こぞって仕事を依頼しに来ました。
そのため、喜多川歌麿は没するまで絵筆を折ることなく、精力的に作品を残し続けたのです。
まとめ:喜多川歌麿の浮世絵は女性美を追求した美人画が有名
喜多川歌麿の浮世絵は、蔦屋重三郎に才を見出されて以降、女性の美を追求した美人画がメインになっていきました。その浮世絵は、日本だけに留まらず、海外においても高い評価を受け続けています。
今回の内容をまとめると、
- 喜多川歌麿の浮世絵の特徴は繊細で品のある描線にある
- 喜多川歌麿は、蔦屋重三郎に見出されて以降、美人画がメインになった
- 喜多川歌麿は、日本国内だけではなく、海外でも高く評価され続けている
蔦屋重三郎亡き後の喜多川歌麿の作品は、以前のような精彩さが無くなってしまったという話もあります。それほどまでに、喜多川歌麿の作品は、蔦屋重三郎の影響が大きかったということなのかもしれませんね。


