赤染衛門の代表作を簡単に解説!百人一首にも?有名な和歌は?栄花物語とは?
赤染衛門(956(天暦10)頃〜1041(長久2)以後)は、平安時代中期に活躍した女流歌人です。
百人一首の歌人であり、中古三十六歌仙や女房三十六人歌仙の一人にも数えられています。
また、2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、凰稀かなめさんが演じられることでも話題となっています。
そんな赤染衛門の代表作にはどのようなものがあるのでしょうか?
この記事では、赤染衛門の代表作について簡単に解説していきます。
目次
赤染衛門の代表作を簡単に解説!紫式部も評価している
赤染衛門の代表作には、以下のようなものがあります。
- 『栄花物語』
- 『尾張紀行』
- 『赤染衛門集』
また、赤染衛門は、あの紫式部からも評価されています。
紫式部は、『紫式部日記』の中で、以下のように述べています。
「ことやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとて、よろづのことにつけて詠みちらさねど、聞えたるかぎりは、はかなきをりふしのことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。ややもせば、腰はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えもいはぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、にくくもいとほしくもおぼえはべるわざなり」
(現代語訳)
「歌は格別に優れているほどではありませんが、実に由緒ありげで、歌人だからといって何事につけても歌を詠みちらすことはしませんが、世に知られている歌はみんな、ちょっとした折の歌でも、それこそこちらが引け目を感じるような立派な詠みぶりです。それにつけても、どうかすると上の句と下の句が離れてしまいそうな腰折れがかった歌を詠みだして、何とも言えぬ由緒ありげなことをしてまでも、自分こそ上手な歌詠みだと得意になっている人は、(赤染衛門と比較すると)憎らしくもまた気の毒にも思われるというものです」
つまり、紫式部は、赤染衛門のことを、「さほど気品があるというわけではないけれど、慎み深く、立派な歌を詠む人」と評価しているのです。
あの清少納言のことですらひどくけなしていた紫式部に、ここまで言わせるとは、いかに赤染衛門が優秀な人物であったのかということが伺えますね。
赤染衛門は百人一首の和歌にも選出されている
赤染衛門の和歌は、百人一首の和歌にも選出されています。
その和歌は以下の通りです。
赤染衛門の百人一首の歌
「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」
現代語訳
「あなたが来ないとわかっていたなら、ためらわずに眠りについていたでしょうに。待ち続けるうちに夜が更けて、西の空に傾く月を見上げることになってしまったのです」
この歌は、百人一首の第59番目の和歌で、『後拾遺和歌集』より出典されています。
藤原道隆が赤染衛門の姉妹のどちらかの元に通っていた際、ある夜に約束していた逢瀬に現れなかったため、赤染衛門がやんわりと抗議するために代作したものです。
『栄花物語』は仮名文字で記した日本初の歴史物語
赤染衛門の代表作の1つに『栄花物語』というものがあります。
これは、平安時代の歴史物語で、全40巻(正編30巻、続編10巻)の物語です。
内容としては、宇多天皇即位から堀河天皇までの15代、およそ200年間を描写しています。
藤原道長・頼通の栄華を中心に描かれているのですが、その書き方は物語風で、仮名による編年体によって記されているのです。
歴史物語を仮名で記すというのは、『栄花物語』が日本では初めてのことでした。
それほどまでに歴史的価値が高い『栄花物語』ですが、実は作者については詳細が判明していません。
現状では、正編30巻を赤染衛門、続編10巻のうち7帖を出羽弁、残り3帖を複数の女性が書いたとする説が有力とされています。
赤染衛門の有名な和歌
赤染衛門の詠んだ有名な和歌の一部をご紹介していきます。
・「代はらむと 祈る命は をしからで さてもわかれむ ことぞ悲しき」
(現代語訳:(息子に)代り、死んであげたい、と祈る私の命は惜しくないけれど、その祈りが叶うなら(息子と)別れることになるのは悲しい)
・「今宵こそ よにある人は ゆかしけれ いづこもかくや 月をみるらん」
(現代語訳:十五夜の今宵に限っては、世間の人々の様子が気になることです。どこでも私のように月を眺めているのでしょうか)
・「行く人も とまるもいかに 思ふらん 別れて後の またの別れを」
(現代語訳:陸奥国に行く人も、京にとどまるあなたも、夫婦の別れの後に再び別れることを、いかに思うことか)
・「君とこそ 春来ることも 待たれしか 梅も桜も たれとかは見む」
(現代語訳:あなたと一緒だからこそ春の訪れも待たれたのです。梅も桜も誰と共に見ればよいのでしょうか)
・「明日ならば 忘らるる身に なりぬべし 今日を過ぐさぬ 命ともがな」
(現代語訳:明日になれば忘れられてしまう身になってしまうのなら、いっそ、今日を限りに翌日に過ぐさない命であってほしい)
・「いかに寝て 見えしなるらむ うたたねの 夢より後は 物をこそ思へ」
(現代語訳:どのような寝方をして、あなたと逢った夢を見れたのでしょうか。うたたねの夢から覚めた後は、物思いばかりしています)
赤染衛門に関するQ&A
赤染衛門に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 赤染衛門はどんな人?
- 赤染衛門の本名は?
- 赤染衛門の子孫は?
赤染衛門はどんな人?
赤染衛門(あかぞめえもん) 956年(天暦10年)頃〜1041年(長久2年)以後
父:赤染時用(平兼盛?)/母:女(詳細は不明)
夫:大江匡衡
子:挙周(たかちか)、江侍従(ごうじじゅう)
赤染衛門は、赤染時用の子であると言われています。
しかし、『袋草紙』には、赤染衛門の母親は前夫の平兼盛の子どもを宿した状態で赤染時用と再婚し、赤染衛門を出産したとの記述があります。
つまり、赤染衛門の本当の父親が誰かははっきりとは判明していません。
赤染衛門は、藤原道長の正妻である倫子に仕えました。
そして、その後、倫子の娘で一条天皇の中宮である彰子にも仕えます。
この時期に、赤染衛門は紫式部や和泉式部と同僚として交流がありました。
赤染衛門には、文学の才能があり、『栄花物語』の作者としても知られることとなりました。
赤染衛門の本名は?
赤染衛門の本名は不詳です。
赤染衛門という名前自体は、女房名となっており、父が右衛門尉(うえもんのじょう)や右衛門志(うえもんのさかん)を務めていたことが由来となっています。
赤染衛門の子孫は?
赤染衛門は、夫・大江匡衡との間に一男二女の子どもに恵まれましたが、そのうちの娘の一人は若くして亡くなってしまいました。
残った二人のうち、江侍従という娘は、母同様歌の才能に恵まれ、『後拾遺和歌集』に入集するほどまでの名手に成長しましたが、子どもは残していません。
息子・挙周は、高階明順の娘と結婚すると、一人の子どもを残しました。
その息子の子が、後三条天皇にブレーンとして重用され、最終的に正二位中納言にまで昇格した大江匡房です。
つまり、大江匡房は、赤染衛門の曾孫に当たります。
また、この大江家の血は繋がっていき、一説には、鎌倉幕府創建の功臣・大江広元も赤染衛門の子孫ではないかという話もあります。
ただし、大江広元の実父には諸説あるので、真相ははっきりとは判明していません。
しかし、もし仮にそれが真実だとすると、大江広元の子孫とされる毛利氏も赤染衛門の子孫である可能性が出てきます。
まとめ:赤染衛門の代表作の多くは、紫式部が認めるほど立派な詠みぶりだった
赤染衛門は、藤原道長の妻や娘に仕え、宮中にて同僚と共に様々な歌を詠んでいました。その歌は、紫式部が認めるほどのもので、どれも立派な詠みぶりでした。
今回の内容をまとめると、
- 赤染衛門の代表作には『栄花物語』『尾張紀行』などがある
- 赤染衛門の歌は紫式部が認めるほど立派なものだった
- 赤染衛門の歌は百人一首にも収録されている
赤染衛門の歌には、相手の心情に寄り添うものが多々見受けられます。それは、赤染衛門の穏やかで思いやりの深い人柄が表れているものです。そして、そのようなところが、赤染衛門が周りから信頼されていたところなのかもしれませんね。



