赤染衛門の百人一首の歌はどんな歌?意味や背景のエピソードなどを簡単に解説!
赤染衛門(956(天暦10)頃〜1041(長久2)以後)は、平安時代中期に活躍した女流歌人です。
百人一首の歌人であり、中古三十六歌仙や女房三十六人歌仙の一人にも数えられています。
また、2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、凰稀かなめさんが演じられることでも話題となっています。
そんな赤染衛門の百人一首の歌はどのような歌なのでしょうか?
この記事では、赤染衛門の百人一首の歌について簡単に解説していきます。
目次
赤染衛門の百人一首の歌の現代語訳や意味
赤染衛門の百人一首の歌
「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」
現代語訳
「あなたが来ないとわかっていたなら、ためらわずに眠りについていたでしょうに。待ち続けるうちに夜が更けて、西の空に傾く月を見上げることになってしまったのです」
赤染衛門の和歌は、百人一首の第59番目の和歌で、『後拾遺和歌集』より出典されています。
この歌は、藤原道隆が赤染衛門の姉妹のどちらかの元に通っていた際、ある夜に約束していた逢瀬に現れなかったため、赤染衛門がやんわりと抗議するために代作したものです。
赤染衛門の百人一首の歌の表現技法
赤染衛門の百人一首の歌の表現技法を詳しく見ていきましょう。
・「やすらはで」
「やすらは」は、ハ行四段の動詞「やすらふ」の未然形で、「ためらう・ぐずぐずする」の意味です。
そして、「で」は、打消の接続助詞で、「〜ないで」の意味になります。
・「寝なましものを」
「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形で、「まし」は仮想現実の助動詞、「ものを」は逆接の接続助詞です。
つまり、「もし〜であれば、寝てしまったであろうに」という意味になります。
・「さ夜ふけて」
「さ」は言葉の調子を整えるための接頭語です。
よって、ここは「夜は更けて」の意味になります。
・「かたぶくまでの」
「かたぶく(傾く)」は、月が西の山に傾くことを表しています。
月は夜の早いうちに東から昇って、夜明け前に西に沈んでいくので、「夜明けが近づいた」という意味になります。
そして、「まで」は事柄が至り及び限界を表す副助詞です。
つまり、「月が西に沈むまでの」という意味になります。
・「月を見しかな」
「かな」は詠嘆の終助詞です。
よって、「月を見たことですよ」という意味になります。
赤染衛門の百人一首の歌の背景エピソード
赤染衛門の百人一首の歌が詠まれた背景にはどのようなエピソードがあるのでしょうか?
この歌は、『後拾遺和歌集』より出典されており、その詞書には以下のように書いてあります。
「中関白少将に侍りけるとき、はらからなる人に物言ひわたり侍りけり。頼めてまうで来ざりけるつとめて、女に代りてよめる」
(現代語訳:中関白「藤原道隆」がまだ少々だった時代に、はらから(赤染衛門の姉、もしくは妹)のところに来ると言って来なかったことがあり、その女性に変わって詠みました)
以上の枕書からわかるように、この歌は赤染衛門が自分の心情を詠んだ和歌ではなく、姉妹のどちらかに代わって詠んだ「代筆」であるということが特徴として挙げられます。
平安時代は、通い婚が主流でした。
男性が女性の家に行くときに、たくさんの金品を持参し、その金品で女性は生計を立てていました。
したがって、男性が自分のところに来るということは、女性側にとっては非常に重要な意味を持っていたのです。
それが、ある日藤原道隆という高貴なお方が、自分のところに来るというのですから、赤染衛門の姉妹と家族は、お迎えするために念入りに準備をしていました。
しかし、いくら待てども、結局藤原道隆がやってくることはありませんでした。
このときのがっかりした気持ちは計り知れないものでしょう。
その気持をそのまま詠むのは簡単ですが、それでは相手の気持ちを損ねてしまうかもしれません。
そこで、赤染衛門は、姉妹に代わって、次こそ約束を守ってもらえるように、「愛しいあなたに会えなくて残念でした」というけなげさを、穏やかに表現してみせたのです。
赤染衛門は宮中でも女房友だちが多く、良妻賢母として知られており、穏やかな性格でもあったようで、その人柄がよく表れている歌となっています。
赤染衛門はどんな人?
赤染衛門(あかぞめえもん) 956年(天暦10年)頃〜1041年(長久2年)以後
父:赤染時用(平兼盛?)/母:女(詳細は不明)
夫:大江匡衡
子:挙周(たかちか)、江侍従(ごうじじゅう)
赤染衛門は、赤染時用の子であると言われています。
しかし、『袋草紙』には、赤染衛門の母親は前夫の平兼盛の子どもを宿した状態で赤染時用と再婚し、赤染衛門を出産したとの記述があります。
つまり、赤染衛門の本当の父親が誰かははっきりとは判明していません。
赤染衛門は、藤原道長の正妻である倫子に仕えました。
そして、その後、倫子の娘で一条天皇の中宮である彰子にも仕えます。
この時期に、赤染衛門は紫式部や和泉式部と同僚として交流がありました。
赤染衛門には、文学の才能があり、『栄花物語』の作者としても知られることとなりました。
赤染衛門に関するQ&A
赤染衛門に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 赤染衛門の代表作は?
- 赤染衛門の本名は?
- 赤染衛門の子孫は?
赤染衛門の代表作は?
赤染衛門の代表作には、以下のようなものがあります。
- 『栄花物語』
- 『尾張紀行』
- 『赤染衛門集』
また、代表的な和歌もいくつかご紹介していきます。
・「代はらむと 祈る命は をしからで さてもわかれむ ことぞ悲しき」
(現代語訳:(息子に)代り、死んであげたい、と祈る私の命は惜しくないけれど、その祈りが叶うなら(息子と)別れることになるのは悲しい)
・「今宵こそ よにある人は ゆかしけれ いづこもかくや 月をみるらん」
(現代語訳:十五夜の今宵に限っては、世間の人々の様子が気になることです。どこでも私のように月を眺めているのでしょうか)
・「行く人も とまるもいかに 思ふらん 別れて後の またの別れを」
(現代語訳:陸奥国に行く人も、京にとどまるあなたも、夫婦の別れの後に再び別れることを、いかに思うことか)
赤染衛門の本名は?
赤染衛門の本名は不詳です。
赤染衛門という名前自体は、女房名となっており、父が右衛門尉(うえもんのじょう)や右衛門志(うえもんのさかん)を務めていたことが由来となっています。
赤染衛門の子孫は?
赤染衛門は、夫・大江匡衡との間に一男二女の子どもに恵まれましたが、そのうちの娘の一人は若くして亡くなってしまいました。
残った二人のうち、江侍従という娘は、母同様歌の才能に恵まれ、『後拾遺和歌集』に入集するほどまでの名手に成長しましたが、子どもは残していません。
息子・挙周は、高階明順の娘と結婚すると、一人の子どもを残しました。
その息子の子が、後三条天皇にブレーンとして重用され、最終的に正二位中納言にまで昇格した大江匡房です。
つまり、大江匡房は、赤染衛門の曾孫に当たります。
また、この大江家の血は繋がっていき、一説には、鎌倉幕府創建の功臣・大江広元も赤染衛門の子孫ではないかという話もあります。
ただし、大江広元の実父には諸説あるので、真相ははっきりとは判明していません。
しかし、もし仮にそれが真実だとすると、大江広元の子孫とされる毛利氏も赤染衛門の子孫である可能性が出てきます。
まとめ:赤染衛門の百人一首の歌は、姉妹の代わりにその思いを藤原道隆に伝える歌だった
赤染衛門の百人一首の歌は、愛しい人に会えなかった赤染衛門の姉妹の悲しみや恨みを、穏やかに伝えるための代作でした。
今回の内容をまとめると、
- 赤染衛門の百人一首の歌は、百人一首の第59番目の和歌で、『後拾遺和歌集』より出典されている
- 赤染衛門の百人一首の歌は、赤染衛門の姉妹の気持ちを代弁するために詠まれた
- 赤染衛門の百人一首の歌は、赤染衛門の穏やかな性格がよく表れている
赤染衛門の百人一首の歌は、穏やかな性格の赤染衛門であったからこそ詠めた歌だったのでしょう。相手を必要以上に責めることもなく、さらに「次は会いたい」と思わせるとは、赤染衛門がいかにいい女であったのかが伺えます。



