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藤原伊周のエピソードを解説!どんな人?長徳の変とは?藤原道長との弓比べも?

藤原伊周(974(天延2)〜1010(寛弘9))は、平安時代中期に活躍した公卿です。

藤原道長とは、藤原家のトップの座をかけて対立していました。

また、2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、三浦翔平さんが演じられることでも話題となっています。

そんな藤原伊周はどんな人なのでしょうか?

この記事では、藤原伊周に関するエピソードを簡単に解説していきます。

藤原伊周はどんな人?性格などを簡単に解説

藤原伊周は文才に溢れ、性格は子供っぽい一面があるものの、冗談を好む明るいものであったと言われています。

それぞれ詳しく見ていきましょう。

・藤原伊周は漢詩において突出した才能を持っていた

藤原伊周の母・高階貴子は、和歌や漢詩の才能に優れた女性で、藤原伊周もその文才を引き継いでいました。

その中でも、特に藤原伊周は漢詩において突出した才能を持っていたとされています。

1005年に土御門邸で行われた作文会という漢詩の会においては、参列者が感動して涙を流すほど素晴らしい作品を発表したのです。

この時に詠んだ漢詩「花落春帰路」は、『本朝麗藻』に収録されており、この他にも15首もの藤原伊周の漢詩が掲載されています。

・藤原伊周は子供っぽい一面があった

『大鏡』によると、藤原伊周は「心が幼い人であった」と語られています。

藤原道長の家来の言葉に以下のようなものがあります。

「心幼くおはする人にて、便なきこともこそ出でくれ」

(現代語訳:(藤原伊周は)心が幼稚でいらっしゃるから、不都合なことが起きると大変だ)

これはどういう状況の言葉だったかというと、藤原伊周と藤原道長が道長邸にて双六を打とうとしていたのですが、藤原伊周が子供っぽく感情を爆発させやすい性格だったため、家来たちは双六を打つことに反対していたという状況でした。

また、藤原伊周は儀式の内容に関して、他の公卿と意見が対立することが多々ありました。

そのため、周囲から孤立することもしばしばあったようです。

心が幼いあまり、周りに合わせるということが苦手だったようですね。

・藤原伊周は冗談をよく言う、明るい性格だった

藤原伊周の父・藤原道隆や妹・定子は、冗談を好み、よく笑う明るい性格でした。

藤原伊周も同じような性格であったと言われています。

『枕草子』の「宮にはじめてまゐりたるころ」の段でも、その性格の明るさを清少納言が記しています。

藤原伊周のエピソード①|長徳の変で左遷された

藤原伊周は、「長徳の変」によって左遷されるというエピソードがあります。

この長徳の変はどのような事件かというと、長徳2年(996年)に藤原伊周と、その弟の藤原隆家が誤って、花山法皇に矢を射掛けさせてしまったというものです。

なぜこのような事件が起きてしまったのかというと、女性関係に誤解があったためです。

藤原伊周は藤原為光の三女のもとに通っていました。

その一方で、花山法皇は藤原為光の四女のもとに通っていたのです。

三女も四女も同じ為光邸に住んでいたため、藤原伊周は自分以外の男が三女のもとに通っていると勘違いしてしまいます。

そして、藤原伊周は弟にこのことを相談し、よく確かめもせずに従者に命じて襲撃させてしまったのです。

花山法皇に怪我はなかったものの、矢は袖に当たっていたそうなので、本当に間一髪といったところでした。

しかし、その際の従者間の争いで、花山法皇方の従者が2名殺害されてしまいます。

そして、このことが藤原道長の耳に入ってしまうのです。

その結果、藤原伊周と藤原隆家の兄弟は配流が決まり、彼らの異母兄弟や母の実家にあたる高階家も処罰を受けることとなってしまいます。

藤原伊周はこうして、大宰府に左遷されることとなったのです。

藤原伊周のエピソード②|藤原道長と弓比べした

藤原伊周と藤原道長は、当時権力争いをしたライバルでした。

その2人がお互いを意識し合っていたということがよくわかるエピソードがあります。

ある日藤原道長は、藤原道隆の屋敷で行われていた、藤原伊周が人を集めて弓を射ている会に参加しました。

この当時、藤原道長は、藤原伊周よりも官位が下でした。

しかし、藤原伊周よりも先に矢を射てしまい、結果的に勝利してしまうのです。

この結果に、関白の息子でもある藤原伊周に花を持たせようと、周りの人間が延長戦を提案します。

内心、納得がいかない藤原道長でしたが、延長戦の提案を受けました。

その延長戦の1本目。藤原道長は、

「自分の家から帝・后が出るなら、この矢よ、当たれ」

といって、矢を放つと、その矢は見事真ん中に命中しました。

そして、このすぐ後に矢を放った藤原伊周は的を外してしまいます。

さらに、2本目。藤原道長は先程のように、

「私が摂政・関白になるはずなら、この矢よ、当たれ」

といって、矢を放つと、またしても真ん中に命中したのです。

この事態に、周りは気まずい雰囲気が流れ、これをみかねた藤原道隆が「これ以上射るな」と藤原伊周を止めて、弓比べは中止となりました。

このように、藤原伊周と藤原道長は度々対立することがあったようです。

しかし、結果としては、長徳の変によって藤原伊周が失脚してしまい、藤原道長の時代となっていきました。

藤原伊周のエピソード③|藤原伊周は母と妹の死をひどく悲しんだ

藤原伊周は、先程もお伝えしたように、長徳の変によって配流されることとなってしまいます。

その際、藤原伊周の母・高階貴子は、出発しようとする藤原伊周の乗っている車に縋りつき、同行を嘆願したのです。

しかし、当然それが許されることはなく、高階貴子は、そのショックで病気になってしまいます。

これを知った藤原伊周は、病と称して京に戻り、母に会おうとしましたが、捕らえられ、再び大宰府へと送られてしまいました。

こうして、藤原伊周は母の死に目に立ち会うことができなかったのです。

これだけではなく、藤原伊周の悲しみはまだ続きます。

長徳3年には大赦が決まり、藤原伊周は京に戻ってこられることとなりました。

しかし、その数年後に、妹の定子が産後の経過が悪く、そのまま亡くなってしまうのです。

藤原伊周はこのことをひどく悲しみ、定子の亡骸を抱いて慟哭していたと言われています。

定子の葬儀の日には、大雪の中、徒歩で棺に従い、以下の歌を詠みました。

「誰もみな 消えのこるべき 身ならねど ゆき隠れぬる 君ぞ悲しき」

(現代語訳:人はみないつかは死んでしまうものだけれど、この雪の中で君が逝ってしまったことが悲しい)

このように、母の死に目には立ち会えず、妹にも先立たれてしまう、藤原伊周の悲しみはたいそう深いものだったでしょう。

藤原伊周のエピソード④|藤原伊周は子どもたちに遺言を残した

『栄花物語』では、藤原伊周は以下のような遺言を残したと記されています。

【娘たち宛】

「私が死んでしまったら、あなたたちの将来はどうなるのだろう。

なぜ生きている間に、姫君たちを先立たせてくれと祈願しなかったのだろうと、今更悔やまれる。

私が死んだあと、物笑いの種になるようなみっともない振る舞いがあったら、きっと恨みますよ」

【息子宛】

「あなたを大切に育ててきたが、この程度の官位で見捨てて死ぬとは。

私に先立たれてあなたはどういうふうに生きていくのか。

官位目当てに世間の言いなりになったり、心にも無い追従をしたりするくらいなら、

出家してしまいなさい」

以上の遺言を受け、娘たちはいいところに嫁ぎ、息子は従三位まで昇り詰めた後に出家しています。

藤原伊周に関するQ&A

藤原伊周に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 藤原伊周の死因は?
  • 藤原伊周はイケメンで、『源氏物語』のモデルの1人だった?

藤原伊周の死因は?

藤原伊周は、1010年(寛弘7年)に、37歳という若さで亡くなってしまいました。

死因については、『大鏡』によると「御病」としか書かれておらず、病死ではあるのですが具体的な病名までは判明していません。

しかし、『栄花物語』にはこの病気に罹った藤原伊周について、以下のような記載がされています。

「しきりに水を飲んでいて、食欲もあるのに痩せていった」

この記述から、藤原伊周は、父や叔父と同じように糖尿病であった可能性も考えられます。

藤原伊周はイケメンで、『源氏物語』のモデルの1人だった?

藤原伊周はイケメンであったと『枕草子』や『栄花物語』などにおいて記述されています。

特に、『枕草子』では藤原伊周のことを、

  • 作り物語に語られている貴公子
  • ものものしう清げ(どっしりとしてすっきりと美しい様子)

以上のように説明しており、藤原伊周は貫禄のある雰囲気の美しさであったことが伺えます。

また、このことに関連して、藤原伊周は『源氏物語』に出てくる主人公・光源氏のモデルなのではないかとする説があるのです。

藤原伊周が光源氏だと考えられる理由は以下の3つです。

  • イケメンであった点
  • 学問に優れていた点
  • 地方に配流された点

光源氏のモデルは複数存在すると言われているのですが、以上のことから藤原伊周もそのうちの1人であると考えられています。

まとめ:藤原伊周は藤原道長と権力争いをしたライバルであり、家族思いな人物だった

藤原伊周は、藤原道長と権力争いをしていたライバルでした。しかし、ちょっとした勘違いから、権力争いに負けることとなってしまいます。感情的になる場面も多い人物でしたが、家族のことを非常に大事にする人物でもありました。

今回の内容をまとめると、

  • 藤原伊周は、藤原道長と権力争いをしたライバル
  • 藤原伊周は、長徳の変によって左遷されてしまった
  • 藤原伊周は、感情的になる場面も多かった
  • 藤原伊周は、非常に家族思いな人物であった

長徳の変の際に、しっかりと調査して、違う人物のもとに通っているのだとわかっていれば、藤原伊周は左遷されることもなく、母親も病気になることはなかったかもしれません。そう考えると、非常に残念でなりません。

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