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蔦屋重三郎が処罰された理由は?寛政の改革はビジネスチャンスだった?その後は?

蔦屋重三郎(1750(寛延3)〜1797(寛政9))は、江戸時代に活躍した版元(出版人)です。

山東京伝の洒落本や、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵などを出版したことで知られています。

2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の主人公であり、横浜流星さんが演じられることでも話題となっています。

そんな蔦屋重三郎は、晩年幕府から処罰されてしまいます。

なぜ処罰されてしまうこととなったのでしょうか?

この記事では、蔦屋重三郎が処罰された理由などを簡単に解説していきます。

蔦屋重三郎は寛政の改革をビジネスチャンスとした

蔦屋重三郎は、数々の才能を見出し、世に送り出していきました。

その結果、江戸の出版文化は大きな発展を遂げていったのです。

しかし、そんな中、幕府からの弾圧・取り締まりが始まってしまいます。

時の老中・松平定信は、前任の老中・田沼意次の政策とは真逆の、厳しい政策を行うことによって、幕府の財政や権威を回復させようと試みたのです。

これが「寛政の改革」です。

寛政の改革により、今まで許されていたことが許されなくなり、江戸に暮らす人々の不満は溜まっていきました。

そこに蔦屋重三郎は目をつけます。

幕府の改革を真正面からは批判せず、江戸の人々の心情を代弁した戯作で風刺し、徹底的に茶化すことで爆発的なセールスを記録したのです。

このように蔦屋重三郎は寛政の改革をビジネスチャンスとしました。

蔦屋重三郎が寛政の改革によって処罰された理由

蔦屋重三郎は、寛政の改革をビジネスチャンスとして見た蔦屋重三郎は、徹底的に幕府を風刺し続けていきました。

さらに、蔦屋重三郎以外の人々も次々と幕府の風刺をし続けていきます。

その結果、さすがに見過ごせないとなった幕府から、出版統制令が出るのです。

これにより、政府批判や揶揄は許されなくなり、原則として新たな書籍の刊行も禁止されてしまいました。

しかし、この程度で自分のやりたいことを引っ込めるような蔦屋重三郎ではありません。

当時、すでに山東京伝が3冊の洒落本『仕懸文庫』『錦之浦』『娼妓絹籭』の執筆中でした。

それを蔦屋重三郎は、出版統制されているにも関わらず、なんとか刊行することに成功したのです。

当然のことながら、これは幕府の逆鱗に触れることとなります。

蔦屋重三郎と山東京伝は、「風俗や秩序を乱す」とされ、処罰されることとなってしまうのです。

3冊の洒落本は絶版、山東京伝は手鎖50日(両手首に手鎖をはめ自宅謹慎)、蔦屋重三郎は身上に応じた重過料(罰金刑)を課せられました。

このとき蔦屋重三郎がとられた額は、自身の財産の半分だったと言われています。

山東京伝と蔦屋重三郎は、江戸で最も有名な戯作者と地本屋でした。

その2人を処罰するということは、非常に見せしめ的な意味合いが強かったと考えられています。

幕府としても、幕府に批判的な内容の出版物がこれ以上増えるのを止めたかったのでしょう。

ここから逆に考えると、蔦屋重三郎のビジネスは、見せしめとして十分な効果を発揮できるほど成功していたということが伺えますね。

蔦屋重三郎が寛政の改革によって処罰されたその後

寛政の改革により、財産の半分を没収されてしまうという処罰を受けた蔦屋重三郎でしたが、なんとまだ懲りていませんでした。

処罰されたその後も、幕府の規制に屈すること無く、前代未聞のエンターテイメントを仕掛けます。

それは、無名であった浮世絵師・東洲斎写楽の役者絵を28枚一挙に売り出すという大胆な企画でした。

東洲斎写楽は、そこから約10ヶ月の間に、役者絵や相撲絵などを145点も発表し、その後忽然と姿を消してしまいます。

東洲斎写楽の作品は、現代でこそ非常に高い評価を受けていますが、その当時は話題にはなってもあまり人気はでませんでした。

こうして、東洲斎写楽のプロデュースはあまり上手くいかないまま、蔦屋重三郎は志半ばにして、脚気にかかり亡くなってしまうのです。

享年48歳、まだまだやりたいことなどもたくさんあったであろうに、無念の死だったことでしょう。

寛政の改革では喜多川歌麿や恋川春町などの、蔦屋重三郎以外の人も処罰された

寛政の改革では、蔦屋重三郎だけでなく、他の人々も処罰されたり、作品づくりから手を引かざるをえなくなったりしました。

その一例を簡単にご紹介していきます。

・喜多川歌麿

喜多川歌麿は、幕府の様々な規制の目をかいくぐり活動を続けていましたが、1804年(文化元年)に発表した『絵本太閤記』関連の錦絵によって処罰を受けることとなってしまいます。

一説には、その罰は3日間の入牢と手鎖50日だったと言われており、喜多川歌麿はそのまま衰弱していき、2年後に息を引き取りました。

・恋川春町

恋川春町は、寛政の改革を批判した『鸚鵡返文武二道』を刊行し、幕府から呼び出しを受けます。

しかし、それには応じず、しばらくして病死してしまうのです。

これはあまりにも突然の死だったので、一説には、主家・小島藩松平氏に迷惑をかけたとして自害したのではないかと言われています。

・朋誠堂喜三二

朋誠堂喜三二は、『文武二道万石通』を出版し、ベストセラーを記録しました。

しかし、これが幕府から叱責されるのを恐れた藩の上層部からお叱りを受け、執筆を自粛し、戯作者を引退することとなりました。

・大田南畝

大田南畝は御家人の身でありながら、作家活動を行ってきました。

しかし、出版統制令で弾圧されることを恐れて、一時活動を自粛しました。

蔦屋重三郎に関するQ&A

蔦屋重三郎に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 蔦屋重三郎は何した人?
  • 蔦屋重三郎の死因は?
  • 蔦屋重三郎とTSUTAYAの関係は?

蔦屋重三郎は何した人?

蔦屋重三郎は、江戸時代中期に活躍した版元(出版人)です。

簡単に言えば、「カリスマ編集者」「敏腕プロデューサー」のような存在です。

「蔦重(つたじゅう)」の通称で親しまれていた蔦屋重三郎は、数々の才能を見出し、世に送り出しました。

蔦屋重三郎がプロデュースを手掛けた人物の例を挙げると、

  • 喜多川歌麿
  • 東洲斎写楽
  • 山東京伝
  • 朋誠堂喜三二
  • 滝沢馬琴
  • 十返舎一九

などがいます。

また、自身も「蔦唐丸(つたのからまる)」という名で、狂歌師として活動していました。

歌会などのイベントを主催し、そこで詠まれた狂歌を次々と出版したのです。

多くのヒット作を生み出し、巨万の富を得た蔦屋重三郎は、後に「江戸の出版王」と称されるようになりました。

このように、蔦屋重三郎は、江戸の出版業界を引っ張っていく版元として活躍していたのです。

蔦屋重三郎の死因は?

蔦屋重三郎の死因は、脚気だと言われています。

脚気とは、ビタミン不足が原因でかかる病気です。

当時は「江戸わずらい」と呼ばれていました。

蔦屋重三郎は、巨万の富を手にした結果、裕福な食生活を送っていたであろうと予測できます。

そのため、白米中心の栄養が偏った食生活やアルコール依存などから起因したと考えられます。

蔦屋重三郎とTSUTAYAの関係は?

蔦屋重三郎の名前を聞いて「TSUTAYA」を思い浮かべる人は多いのではないでしょうか?

TSUTAYAは、ビデオレンタルや書店として有名ですよね。

それでは、蔦屋重三郎とTSUTAYAは関係があるのでしょうか?

結論からいいますと、直接的な関係はないと言えます。

TSUTAYAの創業者である増田宗昭さんは、蔦屋重三郎の子孫ではありません。

しかし、増田宗昭さんの祖父のお店の屋号が「蔦屋」だったのです。

そのため、増田宗昭さんがTSUTAYAの名前を選んだ理由は、以下の2つが挙げられています。

  • 増田宗昭さんの祖父が営んでいた置屋の屋号が「蔦屋」であったことから
  • 増田宗昭さんが蔦屋重三郎にあやかりたいと考えたから

ちなみに、2024年現在のTSUTAYAの経営陣には蔦屋重三郎の子孫はいらっしゃらないようです。

まとめ:蔦屋重三郎は寛政の改革により見せしめのために処罰された

蔦屋重三郎は版元として、江戸で最も有名になるくらい大成功しました。しかし、寛政の改革で出版統制令が出されると、見せしめのために処罰されてしまったのでした。

今回の内容をまとめると、

  • 蔦屋重三郎は幕府を風刺した作品を出版することで爆発的なセールを記録した
  • 蔦谷重三郎は、幕府の逆鱗に触れ処罰されることとなった
  • 蔦屋重三郎の処罰は見せしめの意味合いが強かった
  • 蔦屋重三郎は、処罰されてもなお、自身のやりたいことをあきらめなかった

幕府の規制は、蔦屋重三郎のやりたいことを次々と規制していくように出されていました。それほどまでに、蔦屋重三郎の影響力は大きかったということが伺えますね。

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