古墳時代の暮らしはどうだった?服装は?食事は?古墳時代の生活の特徴を簡単に解説!
古墳時代とは、一般的に3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指します。
弥生時代に続く時期区分であり、前方後円墳に代表される古墳が盛んに作られていました。
また、倭国が次第に統一されていった時代としても知られています。
そんな古墳時代の暮らしは、どのような暮らしだったのでしょうか?
この記事では、古墳時代の暮らしについて簡単に解説していきます。
目次
古墳時代の暮らしの様子
古墳時代の暮らしでは、弥生時代までと違い、支配者(豪族)と被支配者(民衆)がはっきりと分離しており、その生活のあり方も大きく異なるようになりました。
豪族は、民衆の住む集落とは少し離れた場所に「豪族(首長)居館」というものを建てて、そこに住みました。
この豪族居館の周りには濠(ほり)や柵列が四角形に巡らされており、その敷地内に住居、倉庫、祭祀場などが配置されています。
ここでは、集落の首長となった豪族が、マツリゴト、つまり政治を行ったり、余剰生産された物を蓄えるための倉庫群が営まれたりしました。
これに対して、民衆は集落に住んでいたのですが、弥生時代の集落のように環濠といったものはありません。
複数の竪穴住居ないし平地住居と1、2棟の高床倉庫などが基本の単位となっており、これらがそれぞれの集落によって、いくつか集まって構成されていました。
また、この集落の近くには小型墳墓が複数集まった「群集墳」も造成されています。
各墳墓の直径は10mほどで、人が亡くなるたびに火葬した遺体が追葬されていきました。
以上のように、古墳時代の暮らしでは、弥生時代のように集落全体を守る仕組みではなく、首長の館のみを敵から防御する構造に推移していったのです。
これは、階級社会が人々の生活にまで浸透したことの表れだと言えるでしょう。
古墳時代の服装
古墳時代の服装には、身分によって差が出るようになりました。
それぞれを詳しく見ていきましょう。
【豪族(貴族)の男性の服装】
- 衣と呼ばれる上着に袴を着用
- 衣は、襟のまるい、長い上衣で、左前に合わせ、襟紐と言われる紐で、胸と脇のところで結んでいた
- 袴は、太いダボダボのズボンのようなもので、動きやすいように膝の下を脚結(あゆい)という紐で縛っていた
- 靴も履いていた
- 正装の場合、腰に大刀と呼ばれる刀を身に付けていた
- 髪の毛は、頭の真ん中で左右に分け、おさげ髪のように束ねて、耳の脇で結ぶ「美豆良(みずら)」というスタイル。特に身分の高い人は、これを肩に向かって垂らしていた「下げ美豆良」というスタイルをとっていた
【豪族(貴族)の女性の服装】
- 衣と呼ばれる上着にスカートのような裳(も)を着用
- 身分が高ければ高いほど、色々な色で染められた絹糸で織った布で作られており、水玉や波形などの模様がつくなど、より華やかなものになっていた
- 髪の毛は、今の島田髷に似ているような、頭上でまとめて結んだ髷のスタイル
現在では、洋服の襟を合わせる際、女性は左前、男性は右前となっていますが、当時は男女ともに左前で服を着ていました。
また、男女ともに、首飾りや耳環といったアクセサリーをつけたり、顔に赤色の顔料を塗る化粧をしたりということもあったようですが、これは日常的ではなく、儀式を行う際などにしていました。
【庶民の服装】
- 豪族(貴族)のように男女差はない
- 男女ともに、貫頭衣のようなワンピース型の衣服を着用
- 豪族(貴族)のように絹などが使われることはなく、弥生時代と同じような器具を用いて麻などで作られた布を使用
- 冬などには、寒さを凌ぐために、ズボンを履いたり、サンダルのようなものを履いたりもしていた
- 特別な日には、手作りのアクセサリーをつけていた
- 髪の毛は男女で差があり、男性は美豆良だが、豪族(貴族)の男性とは違い、束ねた髪を肩に向かって垂らさずに、耳の脇で縛り下に垂らさないようにする「上げ美豆良」と呼ばれるスタイル。女性は、後ろで一つに結んだり、お団子を作って上に結い上げたりするシンプルなスタイル。これは、髪の毛が農作業の邪魔にならないようにするためのものだったと考えられている。
古墳時代の食事
古墳時代になると、食べ物や食事回数も身分によって差が出てきます。
それぞれを見ていきましょう。
【豪族(貴族)】
- 一般的に1日2食が中心(朝食と夕食)
- 主食をコメとし、多様な食材を使い、15品目もの食事を豪勢に楽しんでいた
- 食器も、金属器や漆器といった高級品を使用していた
【庶民】
- 一般的に1日2食だが、生活状況によっては1日1食の人もいた
- 主食はコメや雑穀で、一汁一菜の質素な食事
- 1日の摂取カロリーは400kcalであったと考えられており、現代人よりも明らかに低く栄養不足であった
- 食器は、土器や木製の食器が使われていた
以上のように、古墳時代では、身分によってだいぶ食生活に差がありました。
【古墳時代の食生活の特徴】
古墳時代の食生活は、基本的には弥生時代とほぼ同じです。
しかし、異なる点がいくつかあるので、それを見ていきましょう。
・大規模な水田が作られるようになった
弥生時代から稲作が始まり、食料が安定したことにより、どんどん人口が増えていきました。
古墳時代に入ると、その人口増加に対応するために、大規模な水田が作られるようになったのです。
古墳時代に入ってから大規模な水田が作られるようになったのには、いくつか理由があります。
- ヤマト政権のような統率力のあるリーダーの存在が出てきたこと
- 5世紀頃に朝鮮半島から鉄製農具が伝わり、土を掘り起こす力が増し、今まで開墾できなかった土地も使えるようになったこと
- 鉄製農具のおかげで、農作業もより効率化されたこと
- 後期に入り、牛や馬といった家畜を農耕に利用し始めたこと
以上のような様々な理由が重なり、大規模な水田を作れるようになりました。
しかし、急激な人口増加にはやはり対応しきれていなかったのか、一人が食べられるコメの量はあまり増えていなかったようです。
・狩猟・採集などはあまり行われなくなった
縄文時代から行ってきた狩猟・採集は、稲作の安定化により、あまり行われなくなっていきました。
しかし、食材の少ない冬には狩りをして食料を補ったり、田畑を荒らす獣を捕えたりといったように、全く狩猟を行わなかったということはありませんでした。
・網猟が盛んになる
古墳時代に入ると、網漁が盛んになっていきました。
これがなぜ判明したのかというと、網につけるオモリが各地で出土したからです。
網漁は、船に乗って遠くまで行く漁とは違い、農村で暮らす人々が行っていたと考えられています。
冬の食料がなかなか取れない時期には、この網漁がかなり重要でした。
また、北部九州沿岸部や三浦半島には、遠くまで船に乗って漁を行う漁師のムラがありました。
・お酒も作られていた
古墳時代には、なんとお酒も作られていました。
【古墳時代に作られていたお酒】
- 果実酒
- ムラの男女が生米を噛んで吐き出して造る、口噛み酒
- 麹カビの酒
特に、麹カビの酒は、現在の日本酒の原形のようなものだと考えられています。
・「コシキ」「カマド」の登場
中期になると、「コシキ」と「カマド」が半島から伝わります。
コシキは、土器の底に小さな穴が空いているものです。
それをカマドと合わせて使うことにより、蒸し料理ができるようになります。
蒸し料理には強い火力が必要なので、カマドは住居の壁際に作られていました。
これによって作られたものには、強飯(こわいい)と呼ばれる赤飯のようなご飯があります。
カマドの登場により、コメを炊くことが簡単になり、よりコメ食を普及させていきました。
・「須恵器(すえき)」と「土師器(はじき)」の使用
中期には、コシキやカマドだけではなく、須恵器という土器とその作り方も伝わってきました。
須恵器は、登り窯で高い温度で焼くので、水が漏れないくらい堅いという特徴を持っています。
そのため、水甕といった貯蔵用であったり、食べ物を盛り付けるのに適していました。
しかし、堅すぎるが故に、火にかけることができなかったため、そこで登場したのが土師器です。
土師器は、野外で焼いて作るため、赤っぽくて柔らかいという特徴を持っています。
そのため、鍋などの調理用として使用する場合には、この土師器が採用されました。
それぞれの土器の特徴を活かしながら、両方をうまく使っていたというわけですね。
また、須恵器の中には、一人用と思われるような小さな器がたくさんあります。
それまでは、一人用の器というものはあまり見られなかったため、これも古墳時代からの食生活の変化と言えるでしょう。
古墳時代の習俗
古墳時代の習俗では、呪術や信仰に基づいた儀礼が行われていました。
主なものをいくつか見ていきましょう。
・太占(ふとまに)や盟神探湯(くかたち)といった呪術が行われていた
呪術の中で特に代表的なものが「太占」と「盟神探湯」です。
太占は、シカの骨を焼いて、その骨の割れ方を神仏のお告げと考え、吉凶を占う方法です。
そして、盟神探湯は、現在で言う裁判のようなものでした。
やり方は、熱湯の中に手を入れて、火傷をするかどうかや、火傷の程度を見て、罪状を決定します。
この他にも、水で体を清める「禊(みそぎ)」や、災いから逃れるために身の穢れを祓う「祓(はらい)」といったような、現代にも通ずる呪術もありました。
・出雲大社や伊勢神宮が建てられた
この時代には、神様を祀る社、つまり神社も建てられました。
その中で特に有名なものとしては、日本の神様が一堂に会すると言われる島根県の出雲大社や、天照大神が祀られている三重県の伊勢神宮が挙げられます。
・春には祈年祭(としごいのまつり)、秋には新嘗祭(にいなめのまつり)を行っていた
古墳時代では、農耕に関する儀礼も行われていました。
具体的には、春には豊作を祈願する「祈年祭」、秋には収穫への感謝を伝える「新嘗祭」が行われました。
また、天皇の即位後に初めて行われる新嘗祭は、特別に「大嘗祭(だいじょうさい)」と呼ばれます。
古墳時代に関するQ&A
古墳時代に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 古墳時代と弥生時代の違いは?
- 古墳時代の有名な遺跡は?
- 古墳時代はなぜ終わった?
古墳時代と弥生時代の違いは?
古墳時代と弥生時代には、生活スタイルの変化はもちろんのこと、政治や社会の制度においても大きな違いが現れ始めました。
| 弥生時代 | 古墳時代 | |
| 墓制 | 墳丘墓や横穴墓が主流 | 円墳や方墳、前方後円墳など、様々な形状の古墳が作られるようになった |
| 政治的構造 | 小国が各地に存在し、村単位の自給自足的な社会 | 大王や有力な豪族などが中央集権的な体制を築き、各地に古墳を造らせ、権威を誇示した |
| 社会階層 | 社会階層の差はあまりなかった | 大王や有力者を中心に、武士や豪族などの階層が形成され、社会的な格差が明確になった |
| 副葬品 | 簡単な生活用品など | 刀や馬具、甲冑などの軍事的なものが多くなり、身分の高い人ほど豪華な副葬品を納めるようになった |
| 生活 | 稲作を中心とした農業が発展し、村落単位での生活が一般的だった | 豪族たちが農村を支配し、大規模な水田が作られた |
| 交流 | 中国や朝鮮半島との交流が盛んになり、銅鏡や刀などの文化財が伝来した | 更に大陸との交流が盛んになり、渡来人も多くやってきた結果、仏教や漢字、養蚕など新しい文化や技術が伝来した |
古墳時代の有名な遺跡は?
- 百舌鳥・古市古墳群(大阪府)
→仁徳天皇陵(大仙古墳):日本最大の前方後円墳で、全長約486m
- 箸墓古墳(奈良県)
- 西都原古墳群(宮崎県)
- 埼玉古墳群(埼玉県)
- 保渡田古墳群(群馬県)
- 八女古墳群(福岡県)
→岩戸山古墳:磐井の乱を起こした筑紫野国造磐井が埋葬されている
- 吉見百穴(埼玉県)
- 石舞台古墳(奈良県)
- 高松塚古墳(奈良県)
- キトラ古墳(奈良県)
- 五色塚古墳(兵庫県)
- 森将軍塚古墳(長野県)
- 今城塚古墳(大阪府)
- 虎塚古墳(茨城県)
- 造山古墳(岡山県)
- 作山古墳(岡山県)
古墳時代はなぜ終わった?
古墳時代が終わった理由としては、主に3つのことが挙げられます。
・仏教の伝来と火葬の普及
仏教が伝来すると、それまでの土葬の慣習に代わって火葬が広まっていきました。
つまり、古墳を作る必要性が薄くなっていったということです。
・薄葬令
大化の改新で薄葬令が定められ、身分に応じて墓の規模が制限されるようになりました。
これにより、豪族たちが大規模な古墳を築くことは抑止されてしまい、古墳造営の伝統を弱めていくこととなったのです。
・ヤマト政権の強化
ヤマト政権は権力を強めていき、中央集権体制を確立させました。
すると、地方の豪族の権力を抑え、古墳造営を統制するようになりました。
この結果、大規模な古墳の造営は次第に減少していき、最終的には廃止されたのです。
以上のような複数の要素が絡み合い、古墳時代は終焉を迎えました。
まとめ:古墳時代の暮らしは弥生時代と比べると、身分差が色々なものに現れるようになった
古墳時代では、弥生時代とは変わり、暮らしや服装、食べ物など様々なものに身分差が現れるようになりました。
それは、階級社会が人々の生活にまで浸透していたということの表れとも言えるでしょう。
今回の内容をまとめると、
- 古墳時代の暮らしの場所は、豪族と民衆で異なる場となった
- 古墳時代の服装は身分で差があり、豪族は男女でも差があった
- 古墳時代の食事は、身分で差があり、急激な人口増加に食糧事情が間に合っていなかった
- 古墳時代の習俗では、呪術や信仰に基づいた儀礼が行われていた
古墳時代の集落遺跡の旧地表は失われている場合がほとんどです。しかし、群馬県の黒井峯遺跡では、榛名山噴火の際に噴出した軽石によって、ムラが短時間で埋没してしまったため、当時のムラの様子がわかりやすく残されています。このように、古墳時代は文献は少ないですが、モノから当時の様子を知ることができるのです。


