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和泉式部の百人一首の歌はどんな歌?意味や背景のエピソードなどを簡単に解説!

和泉式部(978年頃(天元元年頃)〜不明)は、平安時代中期に活躍した歌人です。

百人一首の歌人であり、中古三十六歌仙や、女房三十六人歌仙の一人に選ばれています。

また、2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、泉里香さんが演じられることでも話題となっています。

そんな和泉式部の百人一首の歌はどのような歌なのでしょうか?

この記事では、和泉式部の百人一首の歌について簡単に解説していきます。

和泉式部の百人一首の歌の現代語訳や意味

和泉式部の百人一首の歌

「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな」

現代語訳

「もうすぐ私はこの世を去ってしまうことでしょう。あの世へ持っていく思い出に、もう一度あなたにお会いしたいものです」

和泉式部の和歌は、百人一首の第56番目の和歌で、『後拾遺和歌集』より出典されています。

晩年、病に伏しながら恋人へ贈った歌だとされていますが、その相手が誰なのかは判明していません。

和泉式部の恋多き生涯を体現する歌として知られています。

和泉式部の百人一首の歌の表現技法

和泉式部の百人一首の歌の表現技法を詳しく見ていきましょう。

・「あらざらむ」

「あら」はラ変の動詞「あり」の未然形で、「生きている」という意味になります。

さらに、「む」は推量の助動詞「む」の連体形となるので、「あらざらむ」は「生きていないだろう」という意味になるのです。

・「この世のほかの思ひ出に」

「この世」とは「現世」の意味となっており、「この世の外」は現世の外の世界、つまり死後の世界を表しています。

また、「に」は目的を表す格助詞で、「〜のために」という意味になります。

つまり、「この世のほかの思ひ出に」は、「来世での思い出になるように」となるのです。

・「いまひとたびの」

「いま」は、「もう」の意味を表す副詞なので、「いまひとたび」は「もう一度」という意味になります。

また、「の」は連体修飾格の格助詞となっています。

・「逢ふこともがな」

「逢ふ」は男女が関係を持つことを表しており、「もがな」は願望の終助詞で「〜であったらなぁ」を意味しています。

つまり、「逢ふこともがな」は、「会えたらいいのになぁ」と実現が難しい希望を語っているのです。

和泉式部の百人一首の歌の背景エピソード

和泉式部の百人一首の歌が詠まれた背景にはどのようなエピソードがあるのでしょうか?

この歌は、『後拾遺和歌集』より出典されており、その詞書には以下のように書いてあります。

「心地例ならず侍りける頃、人のもとにつかはしける」

(現代語訳:体調が優れずにおりました(病気をしてしまいました)ときに、恋しい人に送った歌)

ここからわかるように、和泉式部はこの歌を詠んだ際、病気に伏せっていたようです。

病んで心細いときに、恋しい人に会いたいと詠んだわけですね。

この恋しい人とは一体誰のことなのでしょうか?

和泉式部はまず、和泉国の国司・橘道貞と結婚します。

2人の間には、のちに女流歌人として知られることになる小式部内侍が生まれます。

しかし、和泉式部は、冷泉天皇の第3皇子・為尊親王と熱愛し、そのことを知った橘道貞とは離縁することになるのです。

その後、為尊親王が亡くなってしまうと、今度はその異母弟である敦道親王と恋愛関係になります。

しかし、その敦道親王も若くして亡くなってしまい、失意の和泉式部は彰子に仕えることになり、最終的には藤原保昌と再婚することになったのです。

このように、和泉式部と恋仲になった人物は、判明しているだけでも4人の男性がいます。

この中でも、百人一首の歌の相手の有力候補は、橘道貞か敦道親王ではないかと考えられています。

しかし、詳細は史料に残っていないので、和泉式部が死の間際、誰に会いたいと思ったのかは未だに謎のままです。

和泉式部はどんな人?旦那は何人いた?

和泉式部(いずみしきぶ):978年頃(天元元年頃)〜不明

父:大江雅致/母:平保衡の娘

子:小式部内侍、石蔵宮

和泉式部は、大江雅致と平保衡の娘との間に誕生しました。

和泉式部という名前は、父・大江雅致が式部省に就いており、最初の夫である橘道貞が和泉守という役職に就いていたことから、両方の役職の名を取ってつけられたと言われています。

そんな和泉式部は、恋に生きた女性でした。

和泉式部と恋仲にあったとされる男性は、判明しているだけでも4人(橘道貞、為尊親王、敦道親王、藤原保昌)います。

しかし、実際に結婚したのは、橘道貞と藤原保昌だけなので、旦那は2人ということになりますね。

また、敦道親王との恋愛模様を描いた『和泉式部日記』は、約150首の贈答歌と手紙のやり取りを通じて、男女の心の揺れを繊細かつ情熱的に綴っており、時代を越えて高い評価を受けています。

和泉式部に関するQ&A

和泉式部に関するQ&Aを簡単に解説していきます。

  • 和泉式部の代表作は?
  • 和泉式部は中宮・彰子に仕えていた?藤原道長とのエピソードは?
  • 祇園祭の保昌山は和泉式部をモデルに作られた?

和泉式部の代表作は?

和泉式部の作品は、『拾遺和歌集』といった勅撰集に250首以上も入集しています。

その他にも、和泉式部が詠んだ902首を収めた『和泉式部正集』や、647首を収めた『和泉式部続集』などの歌集もあります。

また、百人一首にも収録されており、第56番目の和泉式部の歌は、恋多き生涯を送り、情熱的な秀歌を多く残した和泉式部を代表する1首です。

さらに、和泉式部を代表する作品と言うと、『和泉式部日記』が挙げられます。

これは1003年(長保5年)4月から翌年1月までの記録で、敦道親王との恋愛模様が主に記されたものです。

約150首もの和歌が掲載されており、2人の間でやり取りされた贈答歌が日記の中心となっています。

和泉式部は中宮・彰子に仕えていた?藤原道長とのエピソードは?

大恋愛をしていた相手・敦道親王が若くして亡くなってしまい、失意の中にいた和泉式部に声をかけたのが藤原道長でした。

藤原道長は、和泉式部の和歌の才能を買っており、自分の娘・彰子に仕えるように依頼してきたのです。

こうして、和泉式部は中宮・彰子に仕えることになりました。

和泉式部の才能を買っていた藤原道長でしたが、和泉式部を揶揄する場面もありました。

それは、ある人が自分の扇を自慢しているときのことでした。

それを見た藤原道長が、

「それは誰からもらった扇か」

と尋ねると、ある人は和泉式部のことを指差しました。

すると、藤原道長はその扇を手にして『浮かれ女の扇』といたずら書きをしたのです。

和泉式部のことを、恋の楽しみばかり追いかけている女と揶揄したわけですね。

それを見た和泉式部は、その横に、

「越えもせむ 越さずもあらむ 逢坂の 関守ならぬ 人な咎めそ」

と書き足しました。

これは、「男女の逢瀬の関を越える者もあれば、越えない者もいる。関守でもないあなたには関係のないことですよ」という意味です。

藤原道長に揶揄されても、和泉式部は自身の才能でそれを軽くあしらったのでした。

祇園祭の保昌山は和泉式部をモデルに作られた?

祗園祭で披露される山鉾の一つに保昌山というものがあります。

これは、別名「花盗人山(はなぬすびとやま)」と呼ばれ、和泉式部とその再婚相手である藤原保昌をモデルに制作されたと言われています。

藤原保昌は、宮中で見かけた和泉式部に一目惚れをしました。

そして、何度も何度も恋文を出してみるのですが、和泉式部はなかなか振り向いてくれません。

そんな中、和泉式部は藤原保昌の本気を試すために、紫宸殿(内裏の正殿)に行き、その庭に咲く紅梅を一枝追って持ってきてほしいと頼みます。

すると、藤原保昌は本当に内裏に忍び込み、警護の武士たちに矢を射かけながらも、なんとか梅の枝を折ることに成功し、和泉式部の元へと持ってきたのです。

こうして、2人は晴れて結婚することとなりました。

保昌山では、この逸話を元に、鎧武者姿の御神体が美しい紅梅を掲げています。

まとめ:和泉式部の百人一首の歌は、恋に生きた和泉式部の最期の思いを表していた

和泉式部の百人一首の歌は、和泉式部が病に伏してしまい、もう先が長くないと感じた際に詠んだ歌でした。それは、恋に生きた和泉式部の最期の思いだったのかもしれません。

今回の内容をまとめると、

  • 和泉式部の百人一首の歌は、百人一首の第56番目の和歌で、『後拾遺和歌集』より出典されている
  • 和泉式部の百人一首の歌は、和泉式部が晩年、病に伏しながら恋人へ贈った歌だった
  • 和泉式部の百人一首の歌の相手は、誰か判明していない

その人生を恋に生きた和泉式部でしたが、恋しい人には会えないという寂しい最期を迎えてしまうのでした。和泉式部の百人一首の歌からは、和泉式部の切ない気持ちが痛いほど伝わってきますね。

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