和泉式部はどんな人?年表から簡単に解説!代表作は?性格は?死因は?

和泉式部(978年頃(天元元年頃)〜不明)は、平安時代中期に活躍した歌人です。
百人一首の歌人であり、中古三十六歌仙や、女房三十六人歌仙の一人に選ばれています。
また、2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、泉里香さんが演じられることでも話題となっています。
そんな和泉式部はどんな人だったのでしょうか?
この記事では、和泉式部の年表を見ながら、その功績や性格などを簡単に解説していきます。
目次
和泉式部はどんな人?簡単に解説
和泉式部(いずみしきぶ):978年頃(天元元年頃)〜不明
父:大江雅致/母:平保衡の娘
子:小式部内侍、石蔵宮
和泉式部は、大江雅致と平保衡の娘との間に誕生しました。
和泉式部という名前は、父・大江雅致が式部省に就いており、最初の夫である橘道貞が和泉守という役職に就いていたことから、両方の役職の名を取ってつけられたと言われています。
そんな和泉式部は、恋に生きた女性でした。
和泉式部と恋仲にあったとされる男性は、判明しているだけでも4人(橘道貞、為尊親王、敦道親王、藤原保昌)います。
しかし、実際に結婚したのは、橘道貞と藤原保昌だけなので、旦那は2人ということになりますね。
また、敦道親王との恋愛模様を描いた『和泉式部日記』は、約150首の贈答歌と手紙のやり取りを通じて、男女の心の揺れを繊細かつ情熱的に綴っており、時代を越えて高い評価を受けています。
和泉式部の年表
※和泉式部の生没年が不明なため、年齢は記載していません。
- 978年頃(天元元年頃)
大江雅致と平保衡の娘との間に誕生する
- 998年(長徳4年)
橘道貞と結婚し、小式部内侍を産む
→為尊親王と恋仲になり、橘道貞とは離婚する
- 1002年(長保4年)
為尊親王が流行病のため、26歳で死去
→敦道親王の愛人となり、石蔵宮永覚を産む
- 1007年(寛弘4年)
敦道親王が早世する
- 1009年(寛弘6年)
中宮・彰子のもとに出仕する
- 1013年(治安3年)
藤原保昌と再婚する
→夫の任国である丹後に下る
- 1025年(万寿2年)
娘・小式部内侍が死去
和泉式部は恋に生きた女性だった
和泉式部は、恋に生きた女性だったと言われています。
その生涯で様々な男性と恋に落ちるのです。
和泉式部はまず、和泉国の国司・橘道貞と結婚します。
2人の間には、のちに女流歌人として知られることになる小式部内侍が生まれます。
しかし、和泉式部は、冷泉天皇の第3皇子・為尊親王と熱愛し、そのことを知った橘道貞とは離縁することになるのです。
その後、為尊親王が亡くなってしまうと、今度はその異母弟である敦道親王と恋愛関係になります。
しかし、その敦道親王も若くして亡くなってしまい、失意の和泉式部は彰子に仕えることになり、最終的には藤原保昌と再婚することになったのです。
このように、和泉式部と恋仲になった人物は、判明しているだけでも4人の男性がいます。
また、和泉式部は百人一首にも選ばれた以下のような歌を詠んでいます。
「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな」
現代語訳
「もうすぐ私はこの世を去ってしまうことでしょう。あの世へ持っていく思い出に、もう一度あなたにお会いしたいものです」
この歌は、晩年病床に伏せった和泉式部が恋人に送った歌だとされています。
しかし、その送った相手が誰なのかは判明していないのです。
有力候補は、橘道貞か敦道親王ではないかと考えられています。
しかし、詳細は史料に残っていないので、和泉式部が死の間際、誰に会いたいと思ったのかは未だに謎のままです。
このように、死ぬ間際まで和泉式部は恋に生きていたのです。
和泉式部の功績
和泉式部の功績としては以下のことが挙げられます。
- 『和泉式部集』正・続において1500余首の歌を残した
- 『後拾遺和歌集』をはじめ勅撰和歌集にも多くの歌を収めた
- 宮中での恋愛を、自身の経験に基づき独自の視点で描いた『和泉式部日記』を書いた
- 「小倉百人一首」にも選ばれた
このように、和泉式部は非常に優秀な歌人として、多くの歌を残したということが功績として挙げられます。
また、『和泉式部日記』によって、当時の生き生きとした恋愛と文化を後世に伝えたことも大きな功績と言えるでしょう。
和泉式部の性格を表すエピソード
ここでは、和泉式部の性格を表すエピソードをご紹介していきます。
- 和泉式部は紫式部から評価されていた
- 和泉式部と藤原道長のエピソード
- 和泉式部の子想いなエピソード
和泉式部は紫式部から評価されていた
和泉式部は、あの『源氏物語』の著者・紫式部からも評価されています。
紫式部は、『紫式部日記』において和泉式部のことを、
「うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと」
(気軽な気持ちで手紙を書いたとき、文筆の才能を感じさせる。ちょっとした言葉にも、香気を放つのが見える。詠む歌はたいそう興味深いものです)
「和泉はけしからぬかたこそあれ」
(和泉にはちょっと感心できない点があるけれども)
と表現していたのです。
ここからわかるように、紫式部は和泉式部の歌の才能を認め、高く評価していました。
しかし、その一方で、恋愛面においては感心できないと苦言を呈してもいたのです。
同僚であるがゆえに、和泉式部の噂話はよく耳に届いていたのかもしれませんね。
和泉式部と藤原道長のエピソード
大恋愛をしていた相手・敦道親王が若くして亡くなってしまい、失意の中にいた和泉式部に声をかけたのが藤原道長でした。
藤原道長は、和泉式部の和歌の才能を買っており、自分の娘・彰子に仕えるように依頼してきたのです。
こうして、和泉式部は中宮・彰子に仕えることになりました。
和泉式部の才能を買っていた藤原道長でしたが、和泉式部を揶揄する場面もありました。
それは、ある人が自分の扇を自慢しているときのことでした。
それを見た藤原道長が、
「それは誰からもらった扇か」
と尋ねると、ある人は和泉式部のことを指差しました。
すると、藤原道長はその扇を手にして『浮かれ女の扇』といたずら書きをしたのです。
和泉式部のことを、恋の楽しみばかり追いかけている女と揶揄したわけですね。
それを見た和泉式部は、その横に、
「越えもせむ 越さずもあらむ 逢坂の 関守ならぬ 人な咎めそ」
と書き足しました。
これは、「男女の逢瀬の関を越える者もあれば、越えない者もいる。関守でもないあなたには関係のないことですよ」という意味です。
藤原道長に揶揄されても、和泉式部は自身の才能でそれを軽くあしらったのでした。
和泉式部の子想いなエピソード
恋に生きたイメージが強い和泉式部ですが、非常に子想いな一面もありました。
和泉式部の子・小式部内侍は自らの子どもを生んだ際に、そのまま亡くなってしまいます。
和泉式部の嘆きは相当なもので、その時残された小式部内侍の子を見ながら、以下のような歌を詠んだと言われています。
「とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり」
(他の人を残して旅立ったあなたは、あの世で誰のことを愛おしく思い出しているだろうか。やはり子供のことであろう。私だってあなたとの死別が何より辛いのだから)
この歌は『後拾遺和歌集』に収められています。
ここからは、子を思う母親の深い悲しみが伺えますね。
そして、和泉式部はこの娘の死をきっかけに出家し、京都・誠心院の初代住職になったとも言われています。
それほどまでに、和泉式部は我が子のことを愛していたのです。
和泉式部の晩年と死因
和泉式部の晩年の様子はわかっていません。
1027年(万寿4年)に、皇太后・妍子の法事において、大和守として任地にあった夫・藤原保昌の代わりに、玉を献上し、和歌を詠んだということが、『栄花物語』「たまのかざり」に記録されています。
しかし、それ以降和泉式部のことが記載されている史料は無く、消息は不明となっているのです。
そのため、和泉式部がいつ、どのようにして亡くなったのかなども判明していません。
しかし、事あるごとに歌を残してきた和泉式部が、藤原保昌の死を悼む歌を詠んでいないことから、藤原保昌よりは早くこの世を去ったのではないかと推定されているのです。
ちなみに、藤原保昌は1036年(長元9年)に79歳で亡くなっているので、和泉式部がこの頃亡くなったとしたら、60歳前後だったのではないかとされています。
和泉式部に関するQ&A
和泉式部に関するQ&Aを簡単に解説していきます。
- 和泉式部の代表作は?
- 祇園祭の保昌山は和泉式部をモデルに作られた?
和泉式部の代表作は?
和泉式部の作品は、『拾遺和歌集』といった勅撰集に250首以上も入集しています。
その他にも、和泉式部が詠んだ902首を収めた『和泉式部正集』や、647首を収めた『和泉式部続集』などの歌集もあります。
また、百人一首にも収録されており、第56番目の和泉式部の歌は、恋多き生涯を送り、情熱的な秀歌を多く残した和泉式部を代表する1首です。
さらに、和泉式部を代表する作品と言うと、『和泉式部日記』が挙げられます。
これは1003年(長保5年)4月から翌年1月までの記録で、敦道親王との恋愛模様が主に記されたものです。
約150首もの和歌が掲載されており、2人の間でやり取りされた贈答歌が日記の中心となっています。
祇園祭の保昌山は和泉式部をモデルに作られた?
祗園祭で披露される山鉾の一つに保昌山というものがあります。
これは、別名「花盗人山(はなぬすびとやま)」と呼ばれ、和泉式部とその再婚相手である藤原保昌をモデルに制作されたと言われています。
藤原保昌は、宮中で見かけた和泉式部に一目惚れをしました。
そして、何度も何度も恋文を出してみるのですが、和泉式部はなかなか振り向いてくれません。
そんな中、和泉式部は藤原保昌の本気を試すために、紫宸殿(内裏の正殿)に行き、その庭に咲く紅梅を一枝追って持ってきてほしいと頼みます。
すると、藤原保昌は本当に内裏に忍び込み、警護の武士たちに矢を射かけながらも、なんとか梅の枝を折ることに成功し、和泉式部の元へと持ってきたのです。
こうして、2人は晴れて結婚することとなりました。
保昌山では、この逸話を元に、鎧武者姿の御神体が美しい紅梅を掲げています。
まとめ:和泉式部は恋に生きた優秀な歌人だった
和泉式部は、生涯様々な男性と恋に落ち、周りからの評価を気にせず、自身の気持ちに正直に生きていました。その和泉式部が残した歌は、どれも非常に優れており、数々の和歌集に収められています。
今回の内容をまとめると、
- 和泉式部は数々の男性と恋をしていたエピソードが残されている
- 和泉式部の残した和歌は非常に優れたものであり、紫式部や藤原道長もその才能を認めていた
- 和泉式部の晩年は消息不明であり、死因も判明していない
和泉式部は、身分の差など気にしないくらい自由奔放に恋に生きる一面があるかと思いきや、子を亡くし深い悲しみにくれるといったように、子を想う母親としての一面もあります。このように、和泉式部には様々な顔があり、それが彼女の和歌をよりよいものにしていってくれていたのかもしれませんね。